フユの備忘録

読んだ本の感想などを書いています

堀江敏幸 「曇天記」

曇天記

 

堀江敏幸 『曇天記』

 都市出版、2018年刊

 

 昨年の半ばからもう身体のあちらこちらに、これまでなかったような違和感をおぼえていた。年に一度、診療所から送られてくる健康診断の結果にも、数値で判断できるかぎりの警告がいくつか読み取れはしたが、これといって有効な対策をとらぬままに年の瀬を迎えた。年末年始の休暇が始まるも、仕事に行かなければのんびりできるかといえばそうもいかず、家で用事の山を黙々とこなす毎日。「少し、のんびり」とか「つかの間の息抜きを」などと脳内シミュレーションをしているあいだに、休暇はそそくさと終わってしまった。せめてもと出かけた映画「アリー/スター誕生」では思わぬハプニングが起き、上映30分もたたぬうちに途中退席となる始末。(冒頭、ブラッドリー・クーパーのライブシーンの迫力ときたら。いきなり度肝をぬかれてしまった)

 

  次に少しまとまった休みがのぞめる5月まで、なんとか持ちこたえてみせよう。そう心に決め、身体の具合をごまかしながら後の日々を駆け足で過ごしていたが、その、持ちこたえてやる、という気持ちの裏に傲岸さと少しの油断があったのか、あるいはその傲岸さの奥に秘められていた捨て鉢な心持ちが一息に弾けたのか、ともかく、なにかが沸点を超えたと思われる瞬間、ことは起きた。

 

 手術か、あるいは保存療法か。治療方針をめぐり医師の意見は割れた。いくつか病院をまわされ、最終的に手術は免れることができて安堵したのもつかの間、手術をしない分だけ長く、痛みと熱に悩まされる日々が続くことになった。身体の一部の不自由が、やがてじわじわと身体全体のバランスを崩しにかかり、普段は決して声高に主張しない小さな歪みが次から次へと叫び出して、こちらの苦痛と不安とをいや増しにする。

 

    身体のどこかがひどく痛んでいるときには、本を読もうとか音楽を聴こうという気にはどうしてもなれない。いつもなら心を晴れ晴れと爽やかにしてくれるような作品も、痛みに苦しんでいるさなかには、その存在が必要以上に眩しく見え、自分の境遇がことさら惨めに感じられてしまうし、更にそう感じてしまう自身の卑小さまでも思い知らされて、ダブルに気落ちしてしまう。この苦しみを決して引き受けようとはしてくれない作品の、自立した清々しさを軽薄だとさえ感じ、恨めしく思ってみたりもする。それなら逆に、深く考えさせられるような重いテーマをもつ作品ならよいかといえば、そういうわけでもない。重さを受け入れる心と身体の余裕がこちらにないから。「ハウスキーピング」の続きも、無論、今は書けそうにない。

 

 いったい、読むことで自分を哀れに感じたり、鬱屈する気持ちがつのったりしないような作品はあるのだろうか。痛みと熱のピークをなんとか乗り切り、自分の身体の外側に確かに存在する世界にふたたび目を向けることができるようになったころ、部屋にひろがる積ん読の小連峰をながめながら、タイトルを手掛かりに、ひょとしたらこれが、と手が伸びたのが、堀江敏幸氏の「曇天記」だった。

 

  不自由のない身体でいたなら、いささか鬱陶しく感じるかもしれない、明るくも、さりとてひどく暗くもない空、曇天。過剰な明度・彩度でこちらの生命力を削ぎにくることのない、ほどよい脱力感と曖昧さのある空模様が、痛みにやつれた身にとってはむしろ心地よいのではないか。そんな期待があった。

 

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 「曇天記」というタイトルが付けられたこの本では、曇りの日には外を歩くと決めた著者が歩いた分だけ積み重ねてきた邂逅をいくつも披露してくれる。曇天のもとでの邂逅とはいっても、ここに収められているエピソードのすべてが雲に覆われた空の下で起きたものというわけでは、もちろん、ない。柔らかな陽射しの注ぐ日、灼熱の太陽が照りつける日の話もあれば、雲のあるなしを確かめようのない夜更けの室内での話もある。それでもこの著者の手にかかると、「曇」「雲」という文字がどこにも姿をあらわさなくとも、描かれる景色がどこか、濃淡の違いはあれども、曇り空を彷彿とさせる灰色に染められているように感じてしまうのは、陽光が内包する熱気や雨がもたらす冷気の、時に神経を逆なでするような破調のエネルギーとは無縁の、適温の、というよりもむしろ、ほとんど温度を感じさせない空気がそこに漂っているからなのかもしれない。

 

  著者を取り巻く風景がやわらかに解きほぐされ、言葉への問いかけ、言葉との生真面目なたわむれを伴いながら思弁を交えて紡ぎなおされ、日常という名の手垢と生臭さを削ぎ落とされて、ほんのわずかに異次元の様相を帯びてあらわれる。

 

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 描かれる対象と描く側の距離が近すぎては決して生じえない、かすかな緊張感と乾いた空気が全編に満ちている。空を覆いつくす雲が大地を圧するように、言葉にこめられた意思・美意識が静かに紙面を均し、読み手を圧する。自然に見える言葉の流れは徹底した作為のたまものなのだ。

 

 だれも気に留めないような、けれど、よくよく見ればなんとも不思議な街の景観に、著者は敏感に反応する。歩きだからこそ、足を止めてみる余裕があるからこそ見える景色というものがある。すべての人に等しく見えるわけではないけれど。

 

 時に転びかけ、息を切らし、時間に遅れ、道に迷う著者。外歩きを続けるなかで自然と、いや必然的に露わになってゆく、そのどことなく不器用でぎこちないフラヌールらしからぬ挙動は、多くの場合めぐりめぐって(あるいは、めぐらずとも)ささやかな悲劇をひき起こす。その悲劇は、大概のささやかな悲劇がそうであるように滑稽さを併せ持っていて、読み手はときに自分の記憶のなかに似た経験を見つけ、思わず口元をゆるませてしまう。


    外歩きの途中で出会う見知らぬ人とのやりとりは、予定調和という錨を失い、あらぬ方向へ飛んでいって読み手の驚きや笑いを誘う。それでも偶然の糸に結ばれた二つの個の間にひとたび情が蠢けば、そこに叙情が生まれ、かすかな温みが漂う。読み手は、不意にもたらされるその温度/湿度の変化に戸惑いながらも、かすかな温みに触れた喜びに包まれる。

 

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  どんな光景にも描くべきなにかを見てしまう。ただぼんやりと目の前に広がる光景をながめているようにも見える著者だけれど、恐らくそのぼんやりはまったく油断ならなくて、なにも描くものがなさそうなところにも必ずなにかを見てしまう作家の鋭い目が、ぼんやりの向こう側で光っている。

 

 「予定」でも「予報」でもない、「予知」めいたなにかを体得するのはいつも身体の左側から。そんな、著者特有の感じ方が明かされる「曇天記」は、一人の作家の体感の記録でもある。ほんのわずかな差異をも逃さず感じ分ける鋭敏な神経に支えられた体感の記憶は、小暗い湿り気となって灰色の景色に斑らな跡を残す。

 

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  満足とはいえないこちらの体調のせいなのか、気を溜めやすい著者の身体の不調がうかがえる記述をいくつも見つけて、胸がザワザワしてしまう。ある程度の歳になると人は、大事なもののために日々自分の身を削って生きているような気がしてくるものだが、大学で教鞭をとりながら執筆・翻訳を続ける著者は、いったいどのようにしてその時間を工面しているのだろう、と事あるごとに心配になってしまう。多忙な著者の身体を慮って、会えばいつも優しい言葉を掛けてくれたという女性の、著者への最後の手紙を締め括る一文が、私の祈りと重なった。

  

くれぐれもご無理なさいませんよう、お祈りしております。

 

 2019年7月25日、ビルスマが亡くなった。