フユの備忘録

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グレン・グールド ブラームス 間奏曲集

 ブラームス:間奏曲集

 Glenn GouldBrahms: 10 Intermezzi for piano

 

 グールドのアルバムの中で特に好きなもののひとつに、ブラームスの『間奏曲集』がある。今でこそ、幾人ものピアニストがブラームスのピアノ小品を集めたアルバムを出しているけれど、自分がこれを買ったころには、その手のものはあまりなかったように思う。グールドとブラームス。ちょっと意外な、でもブラームス好きの自分にとってはまたとない組み合わせに思えたアルバムをお店で見かけ、驚きつつも嬉しくなって即買いしたのだった。そして、聴いてたちまち虜になった。

 

 全部で10の間奏曲を、まるで自分ひとりだけのために弾いてくれているような、あるいはグールド自身、みずからの心の慰みのためだけに弾いているかのように感じてしまうほど、親密で繊細な息遣いが聴こえてくる演奏だ。ほかのだれとも分かち合えない自分の心の中のもっとも柔らかな核が、次々と生まれては消えてゆく音のつぶてに刺激され、共鳴し、ふるえる。ベートーヴェンを聴いていてもめったに感じることのない郷愁やメランコリー。ブラームスの音楽はその郷愁やメランコリーに多分に支配されていて、間奏曲にももちろんその趣きがあるけれど、グールドの演奏で聴くと、若々しさ・瑞々しさがきわだっていて、メランコリーにつきもののウエットさがまったく感じられない。このアルバムが優しさと甘さに満ちているのに決して胃もたれしない感じなのは、そのせいなのだろうか。あるいは小品でも骨太感のあるブラームスの作品だからなのだろうか。同じグールドのブラームスでも、晩年に録音したバラード/ラプソディが陰鬱な響きを勝らせているのとは対照的に、どこまでもさわやかに、追憶にふけり郷愁をしのばせる体の演奏になっている。

 

 ブラームスの器楽曲を聴いていると自然とまぶたにうかんでくるイメージがある。それは樹々に囲まれた鄙びた邸宅の、古いけれど隅々まで手入れの行き届いた一室ーーカーテン越しに午後の薄い光が柔らかに差し込んでいるーーといった景色なのだけれど、グールドの『間奏曲集』は、そんな部屋で奏者ひとり聴き手ひとりの密やかな演奏会に身をおいているような気持ちにさせてくれる。響きすぎない音、薄い膜一枚を隔てて聴くような、どこかくぐもった音がまた、よい。

 

GG: ブラームスの間奏曲のこれまでで最もセクシーな演奏です。

BA: 「最もセクシーな」とはどういう意味ですか?

GG: 即興的な雰囲気が出ていると思うのです。これまでのブラームスの録音にはなかったものではないでしょうか。これはまるでーー私の意見ではなく、友人の指摘ですがーー私は本当は自分のために弾いているのだけれど、ドアが開け放しになっている。そういう演奏なのです。忌み嫌う人もたくさん出てくるでしょうけれど、しかしーー

                    グレン・グールド発言集』 p. 203  

                 

  グールド自身がこのアルバムについて述べた言葉のなかに「即興的」という表現をみつけたとき、なんだか虚をつかれた感じがした。というのも、この演奏が「即興的」だと感じたことは一度もなかったからだ。「即興的」どころか、むしろ、目指す音の世界を具現化するために、タッチが完璧にコントロールされていて、よくよく練りあげられた演奏だなあと思っていたくらい。「即興的」というのであれば、このアルバムではなくて、いくつかあるベートーヴェンのピアノ・ソナタのほうではないだろうか、とも思った。

 

 でも「即興的」という言葉を意識しながら聴いてみると、なるほどという感じもする。リズミカルに機械のような正確さでテンポを刻みつつノンレガートで弾ききるバッハの演奏とは対照的に、アゴーギグもデュナーミクも採りいれながら、一瞬一瞬、湧きあがる感情にまかせて弾いているようには聴こえて、即興という表現は、多分、その点を指して言っているのだろう。

 

 それでもやはり、その「即興」のように一見うつるものは、実際のところは周到に用意された、演出された即興とでも言うべきものなのではないかと思えてならないのだが...(「即興「的な雰囲気」」という表現にも、それはあらわれているような)

 

 非難されるであろうことを承知で、なかば確信犯的に、楽譜上の指示をあえて無視しても自身の頭のなかで鳴っているであろう音を具現化していくのがグールドのやり方だ。その姿勢はこのブラームスでも変わらない。リピート記号やスタッカート記号をあっさり無視したり、多くの演奏家が採用するのよりもずいぶんと速いテンポで演奏したり。でもそんな、楽譜に対するちょっとした謀反が曲自体の魅力を損なってしまうことは、ない。損なうどころかむしろ、魅力を何倍にも増して聴かせてくれる(ときに、別のアルバムで、これはやりすぎなのではないだろうか、と笑ってしまうようなケースもあるけれど)。リピート記号を無視することで冗長さが消え、前半の盛り上がりとその後の静謐さとの対比が鮮明になり、一気に燃え上がりそして鎮静する炎を想起させるop118-1、速いテンポが左右それぞれの手のリズムの複雑さを際立たせて音楽に立体感がうまれ、ジャズっぽい雰囲気を醸し出すop76-6、スタッカート記号を思いきり無視してしっとりと歌いあげる様が情感あふれて素敵なop118-6。

 

 作曲家になりたかったグールドだ。過去の偉大な作曲家は目指すべきライバルで、作品を分析するにあたっては、自分ならここはこうする、とか、こうあるべきだ、という姿勢で向かわずにはいられなかったのかもしれない。彼がピアノを弾くのは、楽譜にあらわれる音の世界を、今一番望ましい(と彼が信じる)かたちで呈示するためだ。それを可能にするのに十分な技術をもって、いとも軽やかに。低声部と内声部にも光をあて、複数の旋律を重ねて、ごく目の細かな音の織物を紡ぎあげていく。このアルバムにかぎらず、グールドの演奏を聴いているとワクワクしてしまうのは、おそらく、曲の顔がよく見えるからなのだと思う。たんに楽譜上の音符が丹念に繋がれているというのではなく、曲にーー彼の声によるのではないーー歌が、息吹きが感じられて、楽譜に並べられた音符のむこうに存在する小宇宙を感じさせてくれるからなのだと。ヨーロッパでもアメリカでもない、カナダという地で、自主性を重んじる(しかなかった)師ゲレーロの教育方針も手伝って、伝統にとらわれない楽曲解釈を育みつづけ、ほかの誰ともちがう新鮮な音の世界を見せてくれるイノベーター、グールド。今年、没後40年を迎える。