フユの備忘録

読んだ本の感想などを書いています

マリリン・ロビンソン 『ハウスキーピング』2

ハウスキーピング

 

 語り手をつとめるのは主人公のルースで、物語は全編、彼女の視点から語り進められていくのだが、はじめのうち、本当にルースが語っているのだろうかと疑問に思ってしまうような瞬間が何度か訪れる。たとえば、ルースの祖父は彼女が生まれるずっと以前に鉄道事故で命を落としているけれど、事故当時、脱線して湖に沈んだ車輌や乗客を探そうと、土地の若者たちが何度も湖深く潜っていく様子が描かれる場面などがそのひとつだ。その場面は、現場に居合わせてそこで起きたことのすべてをつぶさに見ていた者でなければ語れないような細部に満ちているし、水に潜る若者の、本人以外に知るよしもない心の内が描かれたりもしているので、ルースが語り手だと考えると、どこかつじつまが合わないように思えてしまう。また、物語がはじまって間もないころのルースはかなり幼くて、話が進展してもせいぜい20〜30代ほどにしかならないように読めるけれど、自意識に惑わされずに人間という存在を見すえるまなざしや、生死に対するどこか達観した構えを語りの向こうに感じ、その若さにそぐわぬ諦念を秘めた落ち着きに触れるたびに、読み手の脳内に混乱のさざなみがたってしまうのだ。そうなるともうページを遡って「わたしの名前はルース」という冒頭の一文を確認するしかなくなってしまうわけなのだが、さて、その冒頭の一文によって、語り手はたしかにルースなのだと自分に言い聞かせることができたとして、もとの場面に戻って先を読み進もうとページを繰っていくと今度は、なにやら不安が頭をもたげてくる。語り手としてのルースはいったい今どこにいて、どの時点から振り返って物語を語っているのだろうか。語り手としてのルースは、はたして生きているルースなのだろうか、と。

 

 物語を読むうえで、語り手の存在になんらかの戸惑いを感じることはそれほど珍しくもないことだけれど、それがこんなにも気になってしまうのは、なぜなのだろう。もしかしたら、それには、語り手ルースのそばで静かにたたずんでいる湖の存在が関係しているのかもしれない。湖がそこにあるせいで、ルースのまわりには常に死の影が漂っている。祖父だけでなく、のちに母ヘレンをも呑みこむことになる湖。それがルースを次の獲物として視界に捉え、隙あらばさらってやろうと息をひそめて機会をうかがっているように感じられるのだ。三代続けて湖に呑まれてしまうという尋常ならざる不幸が、なかば必然であるように思えてきてしまう。ルースはいかにして湖の一部となってしまうのか。あるいは、なってしまわないのか。もしその魔の手から逃れることができるのだとしたら、生きのびられるのだとしたら、そこにいたるまでの顛末は、いったいどのようなものになるのか。

 

 湖の底に落ちていくルースと、湖の誘惑を断ち切ってからくも生き続けるルースが、代わる代わる読み手の目の前に姿をあらわしては消えていく。そのどちらが幻でどちらが現なのかをはやく確かめたい気持ちがつのるあまり、ページをめくる手が急いてしまう。

 

 といっても、この『ハウスキーピング』は、巧みなストーリー展開で読み手を牽引するタイプの作品ではけっしてない。むしろストーリーからはずれた部分にたくさんの煌めきが見つかるような作品だ。他者の心のわからなさや孤独についてのいくつもの発見が長い時間をかけて著者の中に堆積されていき、それらの発見を説得力をもつような形でひとつひとつ繋げていった先にひとつのストーリーが浮かびあがったーーそれが『ハウスキーピング』という作品だーーといった趣きがある。作品をつらぬくメインロードとしてのストーリーはもちろんあるけれど、どちらかといえばそれは、点在する閃きに説得力を与えてより輝かせるための二次的な存在であり、読み手はときにメインロードから脇に一歩はいった小径へといざなわれる。その小径の先に見えるのは、頼りにできる他者がどこを見回してもいない環境ではぐくまれた孤独な若い魂ーー生よりも死に親和性を感じている魂ーーの漂泊、記憶と想像と内省の深い森であり、その森の磁場の強さに搦めとられた読み手は、自分が今どこにいるのかを見失ってしまう。