フユの備忘録

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ジュンパ・ラヒリ 「べつの言葉で」 (前)

ジュンパ・ラヒリ 「べつの言葉で」

 Jhumpa Lahiri,  In altre parole

 新潮社、クレストブックス、2015年刊。中嶋浩郎訳。

 

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

 

 2014年の中ごろから今年のはじめまで、身辺で実にさまざまなことが起き、本を開くことができなかった。なかなか診断のつかない病に消耗していく人間をかかえてにっちもさっちもいかない状態になり、他者の物語に耳をかたむける余裕がほとんど持てなかった。一昨年出版されたラヒリの「低地」も、買ったきり積んどくの山の一部と化している。ラヒリの身に何が起こっているのか知るよしもなかった。

 

 だから「べつの言葉で」を開いた時、訳者の名を見て驚いた。ラヒリを「オレの女」と呼んだという小川高義氏ではなかったから。「その名にちなんで」の訳文の、心地よいリズムに酔わされて以来の小川ファンとしては、その名がないのを怪訝に思った。スケジュールがどうにも合わなかったのだろうかと想像しながらページをめくる。

 

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 「べつの言葉で」は、ラヒリのイタリア語によせる愛の記録だ。イタリア語という愛の対象を得て、心の中に小さな自由を手にいれたラヒリが、ベンガル語、英語、イタリア語の三言語と自らとのかかわり方を見つめ、思いを語る告白の書でもある。

 

 1994年、初のイタリア旅行でフィレンツェを訪れたラヒリは、聞こえてくるイタリア語に名状しがたい親和性を感じる。

 

  わたしとつながりがあるに違いない言語のような気がする。ある日偶然出会ってすぐに絆とか情愛を感じる人のような気がする。まだ知らないことばかりなのに、何年も前から知っているような、覚えなかったら満足できないし、完結できないだろうと思う。わたしの中にこの言語の落ち着けるスペースがあると感じる。

 

 はじめて会ったのになぜかなつかしさを感じたり、どこか結ばれていると感じたりするのは、情熱的な恋につきもののプロローグだが、イタリア語について語るラヒリの言葉は、まさしく恋におちてしまった人のものだ。一目ぼれならぬ一聴きぼれとでも呼べそうな出会いがあって、ラヒリの胸にイタリア語への愛が芽生える。

 

 帰国後ラヒリはイタリア語を学びはじめる。独学から個人レッスンへ。週に一度、先生に会い、イタリア語で話す。単語を学び、練習問題を解く。イタリア語の本を読み、知らない単語をメモし、覚える。忘れてはまた覚える。地道な作業の繰り返しだ。そうやって少しずつ学んだ言葉をイタリアを訪れるたびに使って試しては、うまくしゃべることができずに落胆する。

 

 ある時、読むのはイタリア語の本だけと決める。小説の仕上げにかかっている時期のことだ。書くのは英語、読むのはイタリア語で、インプットとアウトプットが異なる言語になり大変だが、それでも実行する。

 

 イタリアに移り住むことに決める。場所はローマ。初めて訪れたときに相性のよさを感じた街だ。そこには家族のほか知っている人はだれもいない。暑い夏の盛り、着いたそばからアクシデントに見舞われ、生活に関わる何もかもに不慣れな街で右往左往する。日々感じる混乱と動揺。ふと、それをイタリア語で綴ろうという思いに駆られる。英語はもう頭に浮かばない。文法もなにも構わずに、ただひたすら思うまま、ノートに書きつける。子供のころ日記を書いていて感じた歓びがよみがえる。

 

 だがしょせん日記はモノローグだ。自己満足以上のものにはなりえない。書いたものを他者の目にふれさせる必要があると感じている中、ある日突然、イタリア語で、物語が頭に浮かぶ。英語で書くときには推敲に推敲を重ね、満足いくまで何度でも書きなおすのに、イタリア語では吟味の対象である言葉の選択肢が限られてしまうせいもあり、小編が正味4時間で書きあがる。言語が、書くスタイルまで変えてしまう。

 

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 その、イタリア語で書かれた小編「取り違え」を読みはじめたところで、遅まきながら、ようやく事情が飲み込めた。ラヒリはこの「べつの言葉で」をイタリア語で書いているのだ。あわててページをさかのぼってみると、いやはや、すっかり見過ごしていたが、タイトルページ裏の原題が"In altre parole"となっているではないか。本屋でかけてもらったカバーにかくれていたが、帯にも「イタリア語で書かれた」という文字が。訳者が小川氏でないのはそのせいなのだ。

 

 20年もの間、一歩一歩着実にイタリア語を学び、ついにはイタリアに移り住んでまで言語との距離をかぎりなく縮めようとしているラヒリは、それにしてもなぜ、英語で書き続けていれば不自由なく思うところを書き尽くせるものを、わざわざイタリア語で書くという冒険にでようと考えたのだろうか。読み手が当然ながらに感じてしまうその疑問は、そのままラヒリ自身の疑問でもあり、その答えがところどころで示される。

  

たぶん、創造という観点からは、安全ほど危険なものはないからだろう。

 

イタリア語を勉強するのは、わたしの人生における英語とベンガル語の長い対立から逃れることだと思う。母も継母も拒否すること。自立した道だ。

 

 ベンガル人の両親のもと、ロンドンに生まれ、3歳でアメリカに渡ったラヒリ。移住してなおその地の文化に染まることを敗北と考える母親がいて、家ではベンガル語以外を話すことを禁じられる。両親に認めてもらうために訛りのないベンガル語を話そうと懸命に努力するが、母語であるはずのその言葉が完璧には話せない。一方、アメリカで生きのびるのに必要な英語は、完璧に話せる母国語ではあるけれど、顔かたちや名前のせいでアメリカ人とは認めてもらえない。結局どちらの言語とも一体化することができなかったというラヒリが、誰に強制されたのでもなく、自らの意思によって、今後の拠りどころとすべく選んだのがイタリア語だった。

 

 完璧には話せない母語と、完璧に話せはするがそこに根付いているとは感じられない母国語。二つの言語の間で葛藤しつづけながら、ラヒリは常に自分を欠陥のある存在として、不完全な存在として意識してきたという。でも、それならば、と読み手としては不安になる。そこにイタリア語という第三の言語を持ち込んでも、それは単にもう一つの不完全さを、それも、より徹底した不完全さを引き受けることになるだけなのではないのだろうか? と。 

 

 だがラヒリは、もはやイタリア語に関しては、完全であろうと思ってはいない。

 

もしわたしとイタリア語の間の距離を埋めることが可能だったら、わたしはこの言語で書くことをやめるだろう。

 

 ベンガル語の場合にも英語の場合にも自らに課してきた完璧さの呪縛はここにはない。言語と一体化したいという切迫した希いも、アイデンティティをかけた探求もない。あるのは、イタリア語に対する情熱、そして、絶対に到達できないとわかっていても、あるいはわかっているからこそ、その到達できないかもしれない場所にむかって歩こうとする強い意志だ。作家としての矜恃、そして言葉に対するほとんど信仰とも言えるほどの強い思いがある。

 

 その情熱と意志の裏に、彼女が抱えていた葛藤の激しさを思う。一個人としてはアメリカ人とみとめてもらえないことが多々ありながら、アメリカ人作家として分類され賞賛されることの不条理。その不条理に対して感じていたであろう、やり場のない憤りと違和感を思う。英語で書く作品が評価されればされるほど、胸のうちで大きくなっていったに違いない、その違和感を。