フユの備忘録

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グレン・グールド ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番

 

ベートーヴェン:P協奏曲第4番

 

  閉所恐怖がある身にとっては、コンサートのたぐいはどうにも敷居がたかく、音楽を楽しもうとすればもっぱら、ラジオかCD、DVD(またはTV)を聴く/見るということになる。好きな演奏家が現役で活躍していて、その音色をじかに聴けるチャンスが訪れたとしても、たくさんの人に囲まれてホールという空間に閉じ込められる恐怖を想像してしまうと、選択肢は「行かない」以外ありえなくなってしまうわけだが、チケットが即完売してしまえばともかく、入手可能な状態が続こうものなら、行ってみたい、でも行けない、という葛藤の日々を送ることになる。

 

 好きな演奏家が故人であれば、その演奏に触れるには録音にたよるほかないので、「行ってみたい、でも行けない」という葛藤に悩まされることはない。

 

 もし、コンサートは開かないと決めている演奏家がいるとしたら、それは言ってみれば、こちらの葛藤の原因をシャットアウトしてくれるのだから、ありがたい存在となるわけだ。たとえば「コンサート・ドロップアウト」で知られるグレン・グールドは、キャリアの途中から一切コンサート活動をしなくなったピアニストとして有名だが、自分がグールドを好きになったのには、そのことが少しは関係したかもしれない(親近感がわいたのだ)。でも、それだけが理由だったわけでは、もちろんない。はじめてグールドの演奏に触れたのはラジオを通じてだった。たまたま聴こえてきたバッハの曲の、ポロポロとこぼれ転がる真珠の珠を思わせるようなクリアで美しい音色と、ロマン派的叙情に侵食されていない、もったいぶった厳かさとは無縁の、グルーヴ感さえ感じさせる演奏に耳が吸いついてしまい、曲が終わって、番組の進行役が口にしたピア二ストの名前「グレン・グールド」をあわてて何かに書き留めたことを、かなりの年月がたった今もはっきりと覚えている。それまでは、バッハといえば、子供時代のピアノ・レッスンにまつわる灰色の思い出ーーバッハを弾くといつも、左手が弱いと先生に怒られたのだった(「左手、左手!」)ーーから、聴くにもついつい身構えてしまう存在だったのだけれど、そのときのグールドの演奏が、とっつきにくかったその大家との間にある垣根を取り払ってくれた。それは、過去の不幸な出会いから、ぎこちない付き合い方しかできていなかった作曲家についての、自分には見えていなかった魅力を、「ほら、これ」とわかりやすく示して見せてくれる、魔法のような演奏だった。

 

 そのグールドを、このところまたよく聴いている。一日の終わりに横になって聴くのは、不眠に悩む貴人のために書かれたという『ゴルトベルク変奏曲』と言いたいところだけれど、愛すべきあの81年盤は(55年盤より断然こちらだ)、いったん聴きはじめてしまうと展開の妙を追いかけるのに夢中になり、かえって目が冴えてしまうので、就寝前に聴くのに適した一枚とは、正直、言いがたい。今、入眠の助けになってくれることの多いのは、バーンスタイン率いるニューヨーク・フィルと共演したベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。と言っても、この演奏にしたってリリシズムと官能性に満ち満ちていて、聴いていると胸が苦しくなることがあるから、就寝前の一枚とするのは本当は危険なのだけれど。

 

 いわゆる「ベートーヴェンらしさ」からは自由な地平で展開されるグールドのピアノは、『運命』のモチーフと言われる冒頭の和音4連打を微妙に崩して弾く瞬間から、静かにロマンチックが炸裂する。ゆるやかに緩急と強弱をつけ音色を変幻させながらの演奏はとてもエレガントで、聴いていると、大きな波にゆられて海面を漂っているような気分になってくる。まるで曲そのものが命を宿していて、柔らかくふくらんだかと思えば、緊張感をおびて引き締まったり、姿かたちを不断に変え息づく有機体であるかのようだ。キラキラと華やかにそして儚げに輝く高音と、その高音に寄り添いながら、また時には対峙するようにして存在を主張する中・低音。利き手の左手によって奏でられるその中・低音の豊かな響きが、重層的で広がりのある音の世界をつくりだしていく。鍵盤を叩きつけるようにして鳴らす耳障りな音はなく、どんなフォルテもフォルティッシモも柔らかくコーティングされていて、それが曲全体のエレガントな雰囲気にマッチしている。「こんな風に弾いてほしい」と曲自身が訴えているとおりの姿を、グールドが10本の指をもって、曲そのものになりきって、描いている感じがする。女王様のスキップみたいな、あまり走らない第3楽章も、慣れてみると、なかなか素敵。

 

 ピアノとオーケストラとが代わるがわる主題を奏でるなかで、何度聴いても心ゆさぶられてしまうのは、主導権がオーケストラに移る直前に、ピアノが奏でる最後の一音だ。その消え入るような音の美しさは格別で、その一音を味わいたいがために、せっかく訪れつつある眠りをも、いったん追い払うはめになる。つい息をひそめてしまうのは、繊細さの極みであるそのピアニッシモを前にすると、呼吸することさえ野蛮な行為に感じられてしまうから。

 

 鍵盤の上でポロポロと転がる音の粒をただ無心に追っていくうちに、気持ちが穏やかになっていく。この演奏を緩慢だと誹る人もいるだろうし、グールド本人もいつもの持論に従って演奏しているだけなのかもしれないけれど(それでも、やはりそれ以上の何かを感じてしまう)、自分にとっては、清らかさと色香にみちた、最高にgorgeousな第4番だ。

 

 あえて言うなら、グールドのピアノの繊細さにくらべると、オーケストラの音が粗野であるようにも朴訥であるようにも聴こえてしまう箇所があり、もう少し微に入った音のつくり方をしていたらなあ、と歯がゆく感じてしまう瞬間がある。そんな箇所にさしかかるたびに、もしこれが別の指揮者・オケとの共演だったらどうだっただろう、とつい想像してしまいもする。たとえば、第4番で自分が好きなもう一組の演奏、それはペライアチェリビダッケのものだけれど、もし、グールドがチェリビダッケと共演していたら、どんな風になっただろうかと。録音を認めなかった指揮者と、聴衆の前での演奏を嫌い録音に音楽の可能性を見たピアニスト。信条的に相対する二人がもし共演していたら、「ジョージ・セル事件」以上の何かが起きただろうか。そもそも共演の話が浮上する可能性などありえなかったか...。そんなことを考えながら、虚しくも、頭のなかで二人のエア共演による協奏曲第4番を繰りひろげてみるけれど、残念なことに、別々に録音された二つの演奏を上手く重ねて聴かせてくれるほど、この脳みそは精巧にはできていない。

 

 聴き手が自分の好みにしたがい、演奏者を自由に組みあわせて曲を聴いてみることができたらいいのに。

 

 『グールド発言集』(みすず書房刊)を読みかえしていたら、ヨーゼフ・クリップスとも第4番を共演しているらしいが(「ヨーゼフ・クリップスを讃えて」)その録音はないのだろうか? 後のストコフスキーアンチェルとの場合とは違い、拍子抜けするくらい正統派の(正統派ってなんだ?)演奏を聴かせてくれたクリップスとの第5番だったが、もし第4番も録音が存在するならば、ぜひ聴いてみたい(クリップスとのその第5番の目玉といえば、なんと言ってもティンパニーだ。ドン! ドン!という音ばかりが終始耳につき、もう、呆れるを通りこして笑ってしまった。マイクの位置が悪かったのだろうけど)