フユの備忘録

読んだ本の感想などを書いています

備忘録

 

何があってもおかしくない

 

 一昨年12月から数か月の間、「不幸中の幸い」としか言いようのない出来事が立て続けに起きた。それぞれの出来事の最中にはもちろん、それが不幸なのか幸いなのかを考える余裕などなく、とにもかくにも刻々と変化する状況に対応していくだけで精一杯なわけだったけれど、ひとつ波乱が去ってしばらくの後に、それが「不幸中の幸い」だったのだと気づかされるたびに、その「不幸中の幸い」のうちの「不幸中の」がなくて、ただの「幸い」であったならどんなによかっただろうか、と思ったものだ。

 いや、でも、もしその「不幸中の」がなければおそらく「幸い」を感じることもなかったろうから、そのかぎりでは「不幸中の幸い」というのも悪いばかりではないのかもしれないーーそう捉え直して萎える気持ちを奮い立たせようとしたもこともあった。でも、悪いばかりではないのかもなどと考えてしまうのはきっと、究極/最悪の事態を免れたことからくる思い上がりに過ぎなくて、つまるところ、自分自身に詭弁を弄して悦に入りたかっただけなのだろう。

 「禍福は糾える縄の如し」 

 人生の荒波に翻弄され数々の災難に見舞われながらもたくましく人生を切り拓いていくヒロインが、波乱に満ちたその生涯をいよいよ終えようかという間際になって、ある種の達観をもって口にしそうないささか大仰なそのフレーズが、たしかな実感をともないつつ自分自身の人生と交差する日々がやってこようとは、「不幸中の幸い」の嵐に襲われることになる前にはなかなか想像できなかった。

 たとえフィクションといえども、読めば少なからず登場人物たちの人生を背負うことになるので、心にゆとりのないときには、物語のたぐいはまったく読むことができない。実生活が波乱万丈の展開になっていれば、フィクションを読むことによってもたらされるほんのわずかな心の揺れ動きにも耐えられないものだし、そもそも、フィクションに頼ってまで精神的な刺激を得ようなどとはこれっぽっちも考えないものだ。ひとたび自身が混乱きわまる状況に陥ってしまうと、たとえどんな紆余曲折があろうとも数百ページの先にはたしかな終着点が用意されている物語の世界が羨ましく思えて嫉妬してしまうし、また嫉妬するのでなければ、綿密に築きあげられたプロットーー平時ならそれこそが賞賛の対象となるべきところのーーに収斂される、人の世の混沌を描くにあたっての抽象化・整然化が、なんとなく浅はかに感じられて鼻白んでしまったりする。

 そんなこんなでモノが読めなくなって、積ん読状態になっている本がジリジリと増えていくと、すでに持っているのを忘れて同じ本をまた買ってしまうというはめに何度か陥ることになる。エリザベス・ストラウトの『何があってもおかしくない』はそんな本のひとつだけれど、それを読んでみようかという気持ちにようやくなれたのは、身辺が若干落ち着きを取り戻しつつあるように感じられた昨年夏のころだった。

 『何があっても』に出てくる登場人物はみな、『私の名前はルーシー・バートン』の主人公であるルーシーの故郷アムギャッシュ、あるいはその近郊に住んでいた過去があり、バートン一家となんらかの接点をもっている人々だ。『ルーシー・バートン』でルーシーとその母の昔語りにちらっと顔をのぞかせただけの脇役たちが、この『何があっても』ではメインのキャラクターとなって物語を動かしていく。

 『ルーシー・バートン』を読んでなんとなく知った気になっていたあの人やこの人の、実際の人生にはどのようなドラマが隠されていたのかが、九つの章で詳らかにされる。ある章では噂話のネタとして登場するだけの人物が、別の章ではメインのキャラクターとして描かれたりもして、ひとりの人間を内側・外側の両面からとらえるその手法は、少しだけロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏』を思い起こさせる。とはいえ、ダレルの作品がもつスケールの壮大さーーそれは舞台であるアレクサンドリアという土地の朦朧たる魅力に拠っているところ大なのだろうけれどーーはここにはなく、あるのは、もっと卑近で、そしてどこか見覚えのある風景だ。それでもどちらの作品にも共通して言えるのは、普段は読み手の心の奥底に眠っているある疑問を目覚めさせるということだ。その疑問とは、つまり、人の真の姿はどこにあるのか、そもそも真の姿などあるのだろうか、というあの疑問だ。

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 ……と、『何があってもおかしくない』のことを書き始めたちょうどそのころ、少し落ち着いたかに思われた暮らしに、新たな波が到来した。そしてそれは住まいを変えるという激震をもたらす大波となった。転居することが決まってからしばらくの間は、それまで住んでいた家の、唯一の、しかし何にも代えがたい魅力である眺望を手放さなければならないことがとても悲しくてーー左手に遠く小高い山、右手に水平線をのぞむ高台にあって、窓から見下ろせる山と海にはさまれたエリアの景色が、夕暮れ時になって、徐々に薄い紅色にそまっていく様子の美しさは格別だったーー先々感じるであろう深い喪失感を心の中でシミュレーションしてはさらに憂鬱な気分になったりもしたが、そうした個人的な感傷にはまったくお構いなしに、日々は淡々と過ぎていった。転居することを決めたことをどこか後悔する気持ちも手伝っていたのか、荷造りは遅々として進まず、結局、引っ越し当日、作業員の人たちが来る直前まで必死に段ボールにモノを詰め続けることになってしまったのだが、そこで身に染みて分かったのは、小学生のころ、夏休みの宿題を9月1日の朝、登校する時間ギリギリまでやっていた自分から、まったく、1ミリも、成長していないということだった。

 その後、とにもかくにも、段ボールの山に囲まれながら、新たな住まいでの暮らしが始まった。新しい生活に慣れようと奮闘する毎日は、あれほど執着していた以前の家の窓外の眺めを思って感傷に浸る余裕をなかなか与えてはくれない。ふとした折りに、思い出して、スマホに撮りためておいた写真を見てみることがある。でもそこに写っているのは、一見、懐かしいあの景色のように見えて、違うものだ。あの景色を特別なものにしていた、場の空気が、そこにはない。わかっていたことではあるが、写真を撮りためておくことにあまり意味はなかった。愛着があるというよりむしろ知らない場所のように映る写真の中の景色は、私の気持ちを悲しくさせると同時に、落ち着かせもする。もはやこの頭の中にしか存在しないあの景色は、自分以外の誰のものにもならない。