フユの備忘録

読んだ本の感想などを書いています

マリリン・ロビンソン 「ハウスキーピング」1

ハウスキーピング

マリリン・ロビンソン 「ハウスキーピング」

 Marilynne Robinson,  Housekeeping

 (篠森ゆりこ訳  河出書房新社、 2018年刊)

 

    本屋の書棚に立てかけられた本のジャケットがこちらを見つめていた。ジャケットいっぱいに描かれた、一本の大きな木と水面と、水面の向こうにたたずむ樹影。白、ラベンダー、青、そして緑など、寒色で塗りかさねられたその小さな空間は、うっすらと冷気を放ち、幻想的な雰囲気を漂わせていた。おごそか、だけど柔らか。冷ややか、けれど温かな。互いに相反するいくつもの空気を同時に醸し、どことなく神秘さをたたえている装画に、不思議な磁力を感じ、本を手にとる。著者の名が目に入って息をのんだ。Paris reviewのインタビューでその存在を知って以来、読んでみたいと思い続けてきた作家、マリリン・ロビンソンの名がそこにあった。

 

 マリリン・ロビンソンの作品で日本語で読めるものはあるのだろうか、と以前さがしてみた時には、「ピーターラビットの自然はもう戻らない」(新宿書房1992年刊)というノンフィクションがひとつ見つかっただけだった。今あらためて調べてみると、「ギレアド」が昨年、翻訳されている。そして今年「ハウスキーピング」が出たわけだけれど、これが映画「シルビーの帰郷」の原作なのだという。「シルビーの帰郷」といえば、ビル・フォーサイスだ。昔、フォーサイスの「ローカル・ヒーロー」を語って盛り上がった同僚が、ぜひ観るようにと薦めてくれたものの、結局、機会を逃して観ることができないまま今日まできてしまった、あの「シルビーの帰郷」の原作なのだと。

 

    「ローカル・ヒーロー」「ブレイキング・イン」に「グレゴリーズ・ガール」。フォーサイスの作品をいくつか思い浮かべてみたものの、オフビートな味わいが満載のどの作品をとってみても、未読のまま自分の中で勝手に思い描いている、いわば「妄想版マリリン・ロビンソンの世界」と繋がりそうな要素があるようには、その時は思えなかった。いったい、二人の世界はどのように混ざりあったのだろう。そんな問いが、読む前も、そして読んでいる間も頭から離れなかった。

 

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 私の名前はルース。妹のルシールと一緒に育った。 面倒をみてくれたのは祖母のミセス・シルヴィア・フォスターだったけれど、祖母が亡くなったら祖母の義理の妹たちであるミス・リリー・フォスターとミス・ノーナ・フォスターに代わって、その二人が逃げ出したら祖母の娘のミセス・シルヴィア・フィッシャーになった。

 

 冒頭のこの二つの文章が早くも波乱に満ちた展開を予想させる「ハウスキーピング」は、幼くして孤児となったルースとルシール姉妹の物語だ。母を亡くした姉妹はまず祖母に、祖母の死後は大叔母二人に育てられ、その後、叔母シルヴィが登場してそのシルヴィと共に暮らしていくことになるのだが、渡りの労働者でエキセントリックなところのあるこのシルヴィの存在が、それまで常に一緒で互いの必要性を疑うことなどなかったようなルースとルシール姉妹の、生来の気質、もののとらえ方、考え方の違いを徐々に露わにし、二人の関係に変化をもたらしていく。

  

「バッハ・古楽・チェロ アンナー・ビルスマは語る」

バッハ・古楽・チェロ アンナー・ビルスマは語る【CD付】 (Booksウト)

アンナー・ビルスマ+渡邉順生 著、加藤拓未 編・訳

「バッハ・古楽・チェロ アンナー・ビルスマは語る」

 Bach, early music and violoncello : a conversation with Anner Bylsma

  アルテスパブリッシング、2016年刊

 

 なにかあった時にいつでも起きられるようにという緊張のせいか浅い眠りが続き、やがてその浅い眠りさえなかなか訪れなくなって身体が悲鳴を上げはじめたころのこと、冴えざえとする目を閉じさせてくれるような穏やかな音楽を求めて、あてどなく音源を聴き回っていて、ある日、ビルスマとインマゼールが奏でるベートーヴェンのチェロとピアノのためのソナタに行き当たった。衒いのない、軽やかで、なのに艶やかで、聴いているそばから踊りだしたくなるような開放感とグルーヴ感に満ちた演奏は、それまでに聴いた誰によるものとも違っていて、こんな楽しいベートーヴェンがあったのか、という驚きと嬉しさに、たちまち心を奪われてしまった。興奮したまま第1番、第3番と聴き続け、結局その晩はあれほど待ちわびていたはずの眠りに充たされることはなかったものの、そのうちに、ビルスマの音を聴いていて感じられる、自分を縛る紐がひとつひとつほどけていき、音がいざなう情景に身も心も自在にワープしてしまうような、そんな解放感が、時に導眠剤の役目を果たしてくれるようになっていった。

  (ちなみに、ビルスマはインマゼールの前にビルソンとも録音を残している。そちらの演奏はさらにダイナミズムを感じさせるものになっていて、音楽は生き物なのだ!ということをより雄弁に語ってくれる)

 

 その後「バッハ・古楽・チェロ」という本が刊行されているのを知り、買い求めた。レオンハルトに師事し、ビルスマと共演したこともあるというフォルテピアノ奏者の渡邉順生氏が、ドイツ・バロック音楽の研究者、加藤拓未氏を伴い一週間にわたってビルスマにインタビューを行い、そして生まれたのが「バッハ・古楽・チェロ」だ。この本には、演奏から想像された人柄そのままの、ユーモアあふれる真面目な音の求道者たるビルスマがいて、「音は人なり」もまた真なのだと確信した。ますますビルスマが好きになった。著者(話者)がすぐそこから語りかけてくるような、体温の感じられる訳文が、どことなく宮下志朗氏訳のモンテーニュ「エセー」を思わせる、とても楽しい本だ。

 

 

堀江敏幸「音の糸」

音の糸

堀江敏幸「音の糸」

    小学館、2017年刊

 
  買い物の途中に寄った近くの本屋で、まだ買っていなかった「音の糸」を手にとった。冒頭の一編「青少年のいる風景」は、著者が大学生のころに行ったあるコンサートについてのエピソードにはじまり、「十代の頃からFM放送やLPレコードを通して聴いてきた」という、世界に名の知られたピアニストが登場する。「美しく秀でた額と薄くなりかけた髪」のそのピアニストがベートーヴェンピアノソナタを演奏しはじめると、「両腕が優雅なくらげにな」り、たゆたう腕の動きと奏でられる音とがシンクロしない不思議さこそあれ、ひとつしかない稀有な空間が立ちあがった……、と、当時の記憶が語られてゆくが、主役であるそのピアニストの名は、どこまで読み進めても明かされない。くらげのごとき優雅な腕の動きとそこから繰りだされる音の響きで著者を幻惑したというピアニストとは、いったい誰なのか?  
 
 「美しく秀でた額と薄くなりかけた髪」、そして、ベートーヴェンピアノソナタ。ピアニストの正体を推しはかるにあたってのポイントは、おそらく、この二点だろう。ページを目で追いながらしばし考えるうちに、ふと、ひとりのイタリア人奏者の顔が目に浮かんだ。その額は、以前ある批評家が教皇庁の青年秘書官になぞらえもしたように、なるほど高貴ささえ感じさせる。マウリツィオ・ポリーニか。期待が確信へと変わった瞬間、足はレジへと向かっていた。
 
 「静かに響きわたる著者初の音楽エッセイ」(帯より)
 
 「音の糸」には著者が小学生のころから聴き親しんできたクラシックにまつわるエッセイが50集められている。著者の心の琴線にふれた演奏家の人となりをあらわすエピソードや、ある時ある場所で聴いた記憶に残る演奏が、一編3ページほどの文章で綴られていく。時に最後の一文をもって前段の一節に舞い戻るという趣向をこらしたエッセイは、それ自体、短いながらも独自の楽式を孕んでいるように思われて、読み進めていくうちに、音符のかわりに言葉によって紡がれた音楽を聴いているような気分になってくる。指揮者や演奏家の助けを借りずに読み手ひとりで味わうことのできる音楽、それがこの「音の糸」なのだ。
 
  音楽エッセイを読むことの愉しみはいくつかある。自分が好きな演奏家や楽曲が取りあげられていればまずそれだけで喜びを味わえる。自分の感じていたことがそのまま文字になっていればもちろんのこと、うまく言葉にできずにただぼんやりと感じているしかなかったその魅力が、ああ、こういう風に言えるのか、と思える言葉で表現されていれば、胸のつかえがとれたようですっきりした気分になるし、自らの嗜好や感受性に著者のお墨つきがあたえられたような錯覚が生じて、自尊心が満たされもする。逆に自分ではとても思い及ばなかったような言葉でその魅力が語られていれば、近しい人のまだ知らぬ一面を見せられたようで心が震え、その楽曲や演奏家に対する思いがますます募ったりする。また、まだ聴いたことのない演奏家や楽曲が紹介されていれば、見知らぬ世界への扉が開かれたようで、気持ちが高鳴る。
  
 サッカーのワールドカップが開催された後のフランスのある街の小さなホテルのロビーで聴いたホルショフスキー。郷里の修道院の礼拝堂でのギター演奏会で聴いた「アルハンブラの思い出」「禁じられた遊び」「亡き王女のためのパヴァーヌ」。「音の糸」で紹介される演奏には、それが生であれ再生であれ、著者がその時その空間にいて、さらに、その耳をもっていたからこそ生じえた、音楽との幸福な、ときに戸惑いを伴う出会いが含まれていて、そうした出会いの瞬間を活字のこちら側からうかがうしかない読み手には、自分がその場に居あわせなかったことが、さらには著者の耳を持っていないという当たり前の事実が、どうしようもなく不幸なことに思われてくる。音楽の愉しみを知っている者ならだれもがその人なりの音楽との出会いを積みかさねてきているはずだと、どこかでわかってはいても。
 
 生まれて一瞬にして消えてしまう音ーー音楽について書くことは、姿かたちのないものを記憶を頼りに言語化する、綱渡りにも似たいとなみだ。この「音の糸」では、可視化された音のイメージが音のひろがる時空間をクローズアップし、その場の空気と臨場感を醸しだして、読み手の感覚をざわめかせる。
 
数珠つなぎになっているのに音と音のあいだに薄皮一枚の隙間があり、ぱらぱらと一音ずつばらけて鼓膜を打ついらだたしさがあったのに、いつのまにか珠と珠の結びが緊密になっている。にもかかわらず、音が混じり合わずにひとつずつ立っているのだった
 あのたらこのような指先から放たれる音が、一定期間、透き通った膜のなかにとどまり、時を経て静かに滲み出るように拡散していく
一方は音が一メートル前から飛びだし、他方は一メートル奥から伏流して眼の前に浮かびあがる
 
    時に感覚をフルに使って感じられるものとして描かれる音。
 
スペインの太陽から熱を抜いたような、曇りのない少し冷えた音を出す人
 
 こんな表現に出会ってしまったら、どうやってもその音色を確かめてみたくなる。好奇心が掻きたてられてしまう。目が活字を捉えるそばから音源を探したくなる音の描写が、そこかしこにあらわれる。
 

 「美しく秀でた額」の主のほかにも、名を伏せられたままの演奏家が幾人か登場する。郷里の修道院で聴いたギタリスト。あるいはパリの演奏会で残念な出会いがあってから8年後、思いがけず幸せな再会を果たしたピアニスト。彼ら匿名の演奏家たちは、固有名詞が呼び起こしてしまう先入観という雑音に乱されることなく、まっさらな空間に音のある風景を造り上げる。その風景は、ゆるぎない美意識を持ちながらも白か黒かの二元論にはけっして与しまいとする著者の姿勢があってこそ、立ちあがるものだ。読み手はその景色を無心に見つめ、感じ、戸惑い、愉しめばよい。

 

 チェリストアンドレ・ナヴァラや吉田秀和など、数編を割いて語られる人物のエピソードは、どれも静かな感動に満ちている。ブラームス交響曲第一番とデビルマンフレンチ・コネクションリヒテル。およそ結びつけて考えることなどありえない二つのものが見事につながる魔法を見せられて、感嘆のため息が出たり笑ったり。著者堀江敏幸氏はどんな音楽を聴き何を感じてきたのか。その一端が明かされる、ファン必携の一冊。

 

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 「青少年のいる風景」で秀でた額の主として紹介されたポリーニは、「記憶の初級文法」では「篤実なピアニスト」として登場、そして「残せなかった孤影」でようやくその名が明かされる。
 
 機械的、無機質、技術優先。この弾き手にまとわりつく評の空しさを逆に虚しくする、強い気の塊と孤影がそこにはあった。音の丸みとも水の透明さとも無縁の、滞ることも辞さない凄み
 
 末尾のエッセイをも飾るこのピアニストの魅力はまさにこの言葉に尽きる。
 
 

ジュンパ・ラヒリ 「べつの言葉で」 (中)

ジュンパ・ラヒリ 「べつの言葉で」

 Jhumpa Lahiri, In altre parole

 

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

 

言葉にされず、形を変えず、ある意味では、書くというるつぼで浄化されることなく通り過ぎるものごとは、わたしにとって何の意味も持たない。長続きする言葉だけがわたしには現実のもののように思える。それはわたしたちを上回る力と価値をもっている。

 

 書くこと、あるいは書くという行為を通して生まれる言葉に対するラヒリの並々ならぬ思いがあらわれたこの一節に、息をのんでしまう。

 

 ある国に長く暮らし、その国の言葉を何不自由なく話し書くことができるにもかかわらず、あなたはなぜそこにいてその言葉を話すのかと、ことあるごとに尋ねられたなら、あるいは尋ねられはしなくとも、ちょっとした視線や言葉の調子から、そう思われているのを感じてしまったなら、自分の存在が否定されたような気持ちになるだろう。自分が思う自分と他者の目にうつる自分との間に大きな隔たりがあることを思い知らされるだろう。その隔たりはなぜ生まれるのか、自分はどう見えているのか、さらには自分とはいったい何者なのかという問いがそこに生まれ、他者を、というよりもむしろ、自分自身をじゅうぶん納得させられるような答えを出そうと考え続けることになるに違いない。アメリカ人として受け入れられることを激しく求めながら、無条件に受け入れられることのなかったラヒリの頭には、自分は何者なのかという問いが常にあっただろう。

 

 生きていくためにぜひとも習得しなければならない言語が、共に暮らす親にとってはそのアイデンティティーを脅かす言語であるのだとしたら。英語の単語を一語また一語と覚えていく喜びも、英語の本が読めるようになる楽しみも、それをもっとも分かち合いたいはずの親と分かち合うことができないとしたら。おそらく子どもは感じなくてよいはずの後ろめたさや心苦しさを感じてしまうし、知るには早すぎる孤絶感を味わってもしまう。親に十分守られていると実感することがまだまだ必要な年ごろに、言葉の面で、逆に親を守る側にたつことさえあったラヒリには、自分を庇護してくれる強さに満ちているはずの親の、弱者としての姿に、つまりは生身の人間としての姿に気付いてしまう機会が折にふれてあっただろう。

 

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 言葉さえできれば。英語を理解してはいても流暢に話すことのできない親の苦労を見るたびに、英語を完璧に話せさえすればとラヒリは思う。だが、言葉がいくらできてもそれだけでアメリカ人とみなされるわけではなく、そうと思い知らされるたびに、ラヒリの心はどこにもぶつけようのない憤りと無力感とでむしばまれていく。

 

 偶然とみなすにはあまりにしばしば、納得のいかない出来事、理解しがたい出来事に遭遇して、この理不尽はいったい何だろう、そこに何の意味があるのだろうとラヒリは考える。答えなど見つかるはずのないその問いをつきつめていく中で、ある時、理不尽な出来事を引き起こす要素は自分という存在にこそあるのだ、と思い至る。自分のなかの何かがそれを引き寄せてしまうのだと。そう気づいた瞬間、ラヒリのなかに自身を見る他者の目が生まれる。

 

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  書くことは自分自身と対話をすることだ。理解にあまる物事を書くことをつうじて理解しようとし、いまだかたちのないものにかたちを与えようとして書くという行為に出るとき、書きつける言葉のひとつひとつが、その精確さを書き手に問いかけてくる。いったい、この一語は思いを、物事のあり方を、矮小化も誇張もせず、怖れや願望に雲らされることもなく、うつし出すことができているのかと。他の誰をでもなく自分自身を納得させるために事象と言葉とを考えぬく。なかなか見えてこないものをどうにか見ようして目をこらす。そして自身のなかの他者の目が見開かれる。数えきれぬほど多くの問いがうまれ、あまたの言葉が浮かび、精査されては消えていく。最後に紙面に残った言葉には、幾多の問いを経てなおそこにあることが許されたものたちの持つ強さと、いくらかの普遍性が宿っている。

 

 書くという行為を通して見えてきた風景、しぼり出された言葉だけが、ラヒリにとっての真となる。

 

ジュンパ・ラヒリ 「べつの言葉で」 (前)

ジュンパ・ラヒリ 「べつの言葉で」

 Jhumpa Lahiri,  In altre parole

 新潮社、クレストブックス、2015年刊。中嶋浩郎訳。

 

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

 

 2014年の中ごろから今年のはじめまで、身辺で実にさまざまなことが起き、本を開くことができなかった。なかなか診断のつかない病に消耗していく人間をかかえてにっちもさっちもいかない状態になり、他者の物語に耳をかたむける余裕がほとんど持てなかった。一昨年出版されたラヒリの「低地」も、買ったきり積んどくの山の一部と化している。ラヒリの身に何が起こっているのか知るよしもなかった。

 

 だから「べつの言葉で」を開いた時、訳者の名を見て驚いた。ラヒリを「オレの女」と呼んだという小川高義氏ではなかったから。「その名にちなんで」の訳文の、心地よいリズムに酔わされて以来の小川ファンとしては、その名がないのを怪訝に思った。スケジュールがどうにも合わなかったのだろうかと想像しながらページをめくる。

 

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 「べつの言葉で」は、ラヒリのイタリア語によせる愛の記録だ。イタリア語という愛の対象を得て、心の中に小さな自由を手にいれたラヒリが、ベンガル語、英語、イタリア語の三言語と自らとのかかわり方を見つめ、思いを語る告白の書でもある。

 

 1994年、初のイタリア旅行でフィレンツェを訪れたラヒリは、聞こえてくるイタリア語に名状しがたい親和性を感じる。

 

  わたしとつながりがあるに違いない言語のような気がする。ある日偶然出会ってすぐに絆とか情愛を感じる人のような気がする。まだ知らないことばかりなのに、何年も前から知っているような、覚えなかったら満足できないし、完結できないだろうと思う。わたしの中にこの言語の落ち着けるスペースがあると感じる。

 

 はじめて会ったのになぜかなつかしさを感じたり、どこか結ばれていると感じたりするのは、情熱的な恋につきもののプロローグだが、イタリア語について語るラヒリの言葉は、まさしく恋におちてしまった人のものだ。一目ぼれならぬ一聴きぼれとでも呼べそうな出会いがあって、ラヒリの胸にイタリア語への愛が芽生える。

 

 帰国後ラヒリはイタリア語を学びはじめる。独学から個人レッスンへ。週に一度、先生に会い、イタリア語で話す。単語を学び、練習問題を解く。イタリア語の本を読み、知らない単語をメモし、覚える。忘れてはまた覚える。地道な作業の繰り返しだ。そうやって少しずつ学んだ言葉をイタリアを訪れるたびに使って試しては、うまくしゃべることができずに落胆する。

 

 ある時、読むのはイタリア語の本だけと決める。小説の仕上げにかかっている時期のことだ。書くのは英語、読むのはイタリア語で、インプットとアウトプットが異なる言語になり大変だが、それでも実行する。

 

 イタリアに移り住むことに決める。場所はローマ。初めて訪れたときに相性のよさを感じた街だ。そこには家族のほか知っている人はだれもいない。暑い夏の盛り、着いたそばからアクシデントに見舞われ、生活に関わる何もかもに不慣れな街で右往左往する。日々感じる混乱と動揺。ふと、それをイタリア語で綴ろうという思いに駆られる。英語はもう頭に浮かばない。文法もなにも構わずに、ただひたすら思うまま、ノートに書きつける。子供のころ日記を書いていて感じた歓びがよみがえる。

 

 だがしょせん日記はモノローグだ。自己満足以上のものにはなりえない。書いたものを他者の目にふれさせる必要があると感じている中、ある日突然、イタリア語で、物語が頭に浮かぶ。英語で書くときには推敲に推敲を重ね、満足いくまで何度でも書きなおすのに、イタリア語では吟味の対象である言葉の選択肢が限られてしまうせいもあり、小編が正味4時間で書きあがる。言語が、書くスタイルまで変えてしまう。

 

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 その、イタリア語で書かれた小編「取り違え」を読みはじめたところで、遅まきながら、ようやく事情が飲み込めた。ラヒリはこの「べつの言葉で」をイタリア語で書いているのだ。あわててページをさかのぼってみると、いやはや、すっかり見過ごしていたが、タイトルページ裏の原題が"In altre parole"となっているではないか。本屋でかけてもらったカバーにかくれていたが、帯にも「イタリア語で書かれた」という文字が。訳者が小川氏でないのはそのせいなのだ。

 

 20年もの間、一歩一歩着実にイタリア語を学び、ついにはイタリアに移り住んでまで言語との距離をかぎりなく縮めようとしているラヒリは、それにしてもなぜ、英語で書き続けていれば不自由なく思うところを書き尽くせるものを、わざわざイタリア語で書くという冒険にでようと考えたのだろうか。読み手が当然ながらに感じてしまうその疑問は、そのままラヒリ自身の疑問でもあり、その答えがところどころで示される。

  

たぶん、創造という観点からは、安全ほど危険なものはないからだろう。

 

イタリア語を勉強するのは、わたしの人生における英語とベンガル語の長い対立から逃れることだと思う。母も継母も拒否すること。自立した道だ。

 

 ベンガル人の両親のもと、ロンドンに生まれ、3歳でアメリカに渡ったラヒリ。移住してなおその地の文化に染まることを敗北と考える母親がいて、家ではベンガル語以外を話すことを禁じられる。両親に認めてもらうために訛りのないベンガル語を話そうと懸命に努力するが、母語であるはずのその言葉が完璧には話せない。一方、アメリカで生きのびるのに必要な英語は、完璧に話せる母国語ではあるけれど、顔かたちや名前のせいでアメリカ人とは認めてもらえない。結局どちらの言語とも一体化することができなかったというラヒリが、誰に強制されたのでもなく、自らの意思によって、今後の拠りどころとすべく選んだのがイタリア語だった。

 

 完璧には話せない母語と、完璧に話せはするがそこに根付いているとは感じられない母国語。二つの言語の間で葛藤しつづけながら、ラヒリは常に自分を欠陥のある存在として、不完全な存在として意識してきたという。でも、それならば、と読み手としては不安になる。そこにイタリア語という第三の言語を持ち込んでも、それは単にもう一つの不完全さを、それも、より徹底した不完全さを引き受けることになるだけなのではないのだろうか? と。 

 

 だがラヒリは、もはやイタリア語に関しては、完全であろうと思ってはいない。

 

もしわたしとイタリア語の間の距離を埋めることが可能だったら、わたしはこの言語で書くことをやめるだろう。

 

 ベンガル語の場合にも英語の場合にも自らに課してきた完璧さの呪縛はここにはない。言語と一体化したいという切迫した希いも、アイデンティティをかけた探求もない。あるのは、イタリア語に対する情熱、そして、絶対に到達できないとわかっていても、あるいはわかっているからこそ、その到達できないかもしれない場所にむかって歩こうとする強い意志だ。作家としての矜恃、そして言葉に対するほとんど信仰とも言えるほどの強い思いがある。

 

 その情熱と意志の裏に、彼女が抱えていた葛藤の激しさを思う。一個人としてはアメリカ人とみとめてもらえないことが多々ありながら、アメリカ人作家として分類され賞賛されることの不条理。その不条理に対して感じていたであろう、やり場のない憤りと違和感を思う。英語で書く作品が評価されればされるほど、胸のうちで大きくなっていったに違いない、その違和感を。

 

 

オリヴィエ・アサイヤス 「アクトレス」

オリヴィエ・アサイヤス 「アクトレス」

  Olivier Assayas,  Sils Maria, 2014

         

 アサイヤスの映画を地元のシネコンで見られる日がくるとは思ってもいなかった。こんな機会はもうないかもしれないので、時間をやりくりして駆けつけた。(のは、もう去年の話になってしまった)

 

 個人的には「夏時間の庭」以来のアサイヤスだ。「夏時間」にもビノシュが出ていたけれど、あれは、緑に囲まれた趣深い邸宅と数々の美しい調度品が主人公とでも言えるような作品で、ビノシュが出ている必然性が正直感じられなかった。でも、今回の「アクトレス」、主人公のマリアを演じるのは、ビノシュ以外には考えられない。

 

 若く無名だったマリア(ビノシュ)にスターとしての道を確約することになった舞台「マローヤの蛇」。その作者、戯曲家ヴィルヘルム・メルヒオールの功績をたたえる式典が開かれることになり、代理で出席することになったマリアは、マネージャーのヴァル(クリステン・スチュワート)とともに式典の開催地チューリヒへと列車で向かう。スマホを手に列車内をせわしなく行き来しながらマリアのスケジュールを調整するヴァル。そこにメルヒオールが死んだという知らせが入る.....。

 

 この冒頭のシーンを見ていて、思いがけず、デジャヴュ感に襲われた。見たはずのないシーンなのに、いったい、なぜ? 小さな動揺を感じながら記憶の中をさぐっていくと、アモス・ギタイの「撤退」が浮かんだ。「ビノシュ」「列車」「死」という三つの共通のモチーフが、デジャヴュ感をさそったようだ。「撤退」の始まりも列車内シーンだった。といっても、乗っていたのはビノシュではなく、弟役のリロン・レヴォだったけれど。父親の葬儀に出席するためにイスラエルからフランスに戻るというシーンだった。

 

 「撤退」は前半と後半とで作品の空気が一変するので、見終わった後、趣の異なる2つの物語を読まされたような気がしたものだ。ビノシュは、コケティッシュな女、離れて生きる娘の身を案ずる母親、という2つの顔を自在に演じていて、人間の様々な感情を巧みにあらわす表現者だなあと思ったことを覚えている。美人というカテゴリーにあてはまるかどうかは微妙だけれど、なぜかその姿を目が追ってしまう。そんな磁力がビノシュにはある。フランス版メリル・ストリープ、といったところだろうか。忘れがたいのは、娘を訪ねてイスラエルに入ったビノシュが、案内役の男の車を港(?)で待つシーンだ。薄いベージュのコートに、かすかにオレンジがかった淡いピンクの長い長いスカーフ。その柔らかな色合いが、彼女の肌の白さによく合っていて、とてもエレガントだった。

  

 その「撤退」から7年。さらに貫禄と手堅さを増したビノシュが「アクトレス」で演じるのが、女優マリアだ。年の頃といい業界での立ち位置といい、ビノシュ本人を彷彿とさせるマリア。となると、どうしてもこちらは、マリアとビノシュを重ね合わせて見てしまうことになる。

 

 「マローヤの蛇」の再演が決まり、マリアに再びオファーが来る。だが今回は、かつて演じた若きシグリッド役ではなく、シグリッドに入れ込んだあげく棄てられ、死ぬことになる中年のヘレナ役でのオファーだ。シグリッド役を疑っていなかったマリアは、自分がもはやそれを演じるだけの若さがないと見られているのだと思い知らされる。他人の目に映る自分の姿に誰よりも敏感であるはずの女優にとって、お前はもう若くないと遠回しに言われることは、屈辱以外のなにものでもないだろう。そしておそらく、ビノシュ本人にとっても、その屈辱感はもはや無縁のものではないに違いない。

 

 マリアはそのオファーを一旦は断る。以前ヘレナを演じた女優は乗っていた車が激突してーー事故なのか自死なのかーー撮影後に死んだから、と。ヘレナ役につきまとう不吉な影が怖いというわけだ。でもそれはとっさに出た言い訳にしか聞こえない。マリアはただ自分が歳をとってしまったという事実を受け入れられないだけなのだ。

 

 シグリッド役に抜擢されたのは、若さにまかせた怖いもの知らずの言動でたびたびゴシップを提供するジョアン(クロエ・グレース・モレッツ)だった。彼女が出演するハリウッドSF映画をヴァルと一緒に見に行ったマリアは、その映画をこきおろす。高笑いする。怖れの裏返しとも思えるヒステリックなまでの笑い。

 

 ジョアンに才能を認めるヴァルは、マリアのその笑いが不快でたまらない。「時々あなたのことが本当に嫌いになる」と吐き出すようにつぶやく。 ヴァルは観察者だ。女優マリアをあらゆる形で支えつつも、彼女と同化することなく、独自のものの見方を崩さないでいられる冷静さを持っている。しなやかな感性と広い守備範囲で、豊富な経験に裏打ちされたマリアの頑固な価値観に新たな視点を吹きこむ、言うなれば、古いものと新しいものとの間をとりもつコネクターだ。

 

 役柄の魅力もあってか、このヴァルを演じるクリステン・スチュワートの存在感が、物語が進むにつれ自分の中でぐんぐん大きくなっていく。ビノシュ+アサイヤスの組み合わせに惹かれて見にいったはずの映画で、いつの間にかクリステン・スチュワートの姿を探しているのだから。贅肉のない、繊細でシャープなその演技が、ヴァルという存在に確かなリアリティを与え、ビノシュとクロエ・グレース・モレッツという華やかな女優役の2人にはさまれながら、その2人を凌ぐほどのプレゼンスを醸し出している。それも、これ見よがしにではなく、ごく自然にうつる演技で。

 

 ビノシュのほうはいかにも女優にふさわしい立ち振る舞いに徹している。役柄からしてそれは当然のことなのだが、スチュワートのラフな感じとあまりに対照的なせいか、その感情表現が時に過剰で紋切り型のようにも見えてしまう。演じていることを感じさせる演技というか、少し時代がかった演技というか。

 

 シルス・マリアにある静謐な白い山荘で、あるいは山腹で二人は台詞合わせを重ねる。ヘレナをどう演じたらよいか悩むマリアに、ヴァルは自分なりの役の解釈をぶつける。だがマリアは頑なにそれを容れようとはしない。相手の殻をこわすことができないことに苛立ちと虚しさを感じたヴァルは、台詞合わせの相手がほしいだけなら別の誰かに頼んでとマリアに告げ、ある日、姿を消す。

 

   Cruelty is cool, suffering sucks.

 

 ヘレナ役をめぐる対話の中でヴァルが口にする(それも、二度)この言葉が、若さと老い、愛される側と愛する側の立ち位置を端的に言い当てるこの言葉が、マリアとヴァル、マリアとジョアン、ビノシュとスチュワート、ビノシュとモレッツといういくつもの関係性と呼応して、頭の中を何度も駆けめぐってしまう。

 

 クリステン・スチュワートの強烈な存在感は姿を消してもなお残り、またどこかでふと姿を見せるのではないかという期待を、その可能性はかぎりなくゼロに近いと分かってはいても、最後まで捨てることができなかった。マリアの中にヴァルが息づいていることがわかる場面を目にする歓びときたら。それにしても、ほとんど素なのではないかと思わせる演技で向き合ってくるクリステン・スチュワートを、ビノシュはいったいどんな気持ちで見ていたのだろうか。目に見える若さ、若さや才に裏打ちされた自信とエネルギーに対し、嫉妬や羨望や焦りといった感情を持ったりはしなかっただろうか。もっとも、娘と言ってもいいぐらいの年の相手だから、少しは母親のような気持ちになっても不思議はないけれど(「若い才能を前にゾクゾクしたわ」とか)。ビノシュに聞いたらどんな答えが返ってくるだろう。

 

 この映画でのビノシュは、いつもの通り巧みな表現者だったと思う。特にラストのクローズアップは、屈辱、諦念、覚悟、決意など実にさまざまな感情をたたえているように見えて忘れがたく、最後にきてこの作品の主人公は誰なのかを思い出させてくれる。それでも、やはりどこか冴え切ってはいないように見えてしまうのは、多分ビノシュのせいではない。それがこの作品での彼女の役割であり、それに皮肉にして残酷にも、冴え切ってはいないように見えることで、この作品のテーマが二重の説得力をもって見る側の胸に迫ってくるように思う。

  

 ジョアン役のクロエ・グレース・モレッツのふとした表情に、ヴィルジニー・ルドワイヤンの面影を見て、思わずはっとしてしまった。アサイヤスも面影を見たのだろうか。

   

 

    アクトレス ~女たちの舞台~ [DVD]

 

 

 

 

 

 

 

 

アリス・マンロー 「ディア・ライフ」 (後)

アリス・マンロー、「ディア・ライフ

 Alice Munro,  Dear Life

 

 「フィナーレ」4篇で描かれるのは、数十年の時を経てもなお、消化されぬまま心に残るいくつもの出来事、またそれらの出来事にまつわる当時の感情で、その感情の多くは怖れ/畏れ、憤りなど、どちらかと言うとネガティブなものだ。天真爛漫という言葉がこれほど似合わない子供は他にないだろう、と読む側が思ってしまうほど、自意識の強い子であったマンローの姿がそこにはある。マンローは長子だ(母親はマンロー誕生以前に2度の流産を経験した)。長子ならたいてい天真爛漫でいられる期間はおのずと限られてくるものだし、ましてや知力に優れた子供だったわけだからなおさら、いつまでも無邪気を装ってはいられなかったのだろう。

 

 第二次大戦のころのカナダの片田舎での親子5人の暮らし。親から受け継いだ農場を守るだけでは飽き足らない父親は、毛皮の商売で一山あてようと、土地を買いミンクやキツネを飼育するが、商機を逃し、結局工場の夜間警備員として働くことになった。母親は、小さな農家の出自から身を起して教師になった努力の人で、自分自身に対して、あるいは周りの人間に対しても、こうありたい/あるべきという理想の姿がまずありきの人だった。ある時期まで、母親に対するマンローの反発・嫌悪感はなかなか強烈で、「母が口にすることの大部分が嫌でたまらなくなり、とりわけ母があの身震いせんばかりの、わくわくしてさえいるような確信に満ちた声でしゃべるのが嫌でたまらなくなっていた」とまで言っている。だが、その母親も40代という若さで早期発症型のパーキンソン病にかかってしまうと、身支度さえ徐々にあやしくなっていく母親の身の回りの世話をし、先頭きって家事をこなすのは、もうほとんどマンローの役割ということになる。まだ十代半ばのことだ。

 

 思春期の、まだまだ夢を見ていたい年頃の女の子にしてみれば、酷に感じられるはずの家庭環境だ(それでも、マンロー自身は、当時を「不幸せなものとして記憶してはいない」「困難があったにもかかわらず、わたしは自分を運のよい人間だと思っていた」と言っている)。ただでさえ振れやすい思春期のやわらかな心。女で頭のよいことが必ずしも尊重されない時代と土地。野趣あふれるカナダの片田舎での暮らしの些事…。目の前の現実からいっとき逃げるかのように、マンローは本の世界に向かう。毎日、父親を仕事に送り出し、夕食をつくって食べ皿洗いを終えると、町の図書館で借りた分厚い本に没頭した。「銀の森のパット」「赤毛のアン」、「魔の山」、そして書かれていることがほとんど理解できなかったという「失われた時を求めて」。本を読んでいる時間は、ここでないどこかにいることが許される貴重なひとときだったに違いない。

 

 70年ほど前のカナダ・ウィンガムの風俗・習慣を垣間見せてくれるこの「フィナーレ」を、マンローは「単なる実生活の記録」と位置づけているが、読んでいると「フィクションでは…こうはならない」といった表現に出くわす。それも一度ならず。例えば、あるダンスの集いで会った娼婦の、ゴールデンオレンジのタフタのドレスについて言及するとき。

 

もしわたしが実際の出来事を思い出しているのではなくフィクションを書いているのなら、彼女にあんなドレスは着せなかっただろう。彼女には必要のない一種の宣伝だ。

 

 あるいは、父親の毛皮商売がダメになり母親もパーキンソン病を発症するなどして、一家が続けざまに不運に見舞われたことに言及するとき。 

 

これではあんまりだと思われることだろう。商売は駄目になり、母のからだは駄目になりかけ。フィクションならけっしてこうはならない。

 

 探せば他にも似たような言い回しはある。単に現実とフィクションとの違いを際立たせるための言葉に過ぎないにしても、その実、マンローの作品のありようを如実に物語っていて、面白い。一つの細部がかならず他の部分に対するなんらかの理由づけに、しかも過不足のない理由づけになっているのがマンローのフィクションだ。限られた紙片の中で物語が完結する短編小説に共通する特徴だといえばその通りだが、マンローの場合は特に、どんなにささいなパーツも、その一つ一つが全体にとって欠かすことのできないものとして存在している。

 

 完璧に組まれたピースは、けれど、時に息苦しさやあざとさを感じさせることがある。マンローのフィクションを読んでいると、まさに用意周到という言葉がぴったりくるなあと思うことがあるわけなのだが、「フィナーレ」各編は、そんな徹底した作り込み感とでもいうような面が比較的薄いので、読む側もそれほど身構えずにいられるのが、いい。(薄いとはいっても、それでも、読む側の心に深い深い余韻を残す形に仕立ててあって、これがもう何十年も書くことを生業としてきた人の文章なのだなあと、恐れ入ってしまう)

 

 「目」「夜」「声」と、簡潔で感覚的なタイトルが続く中、最後を締めるかたちで登場するのが表題作「ディア・ライフ」だ。その 'dear life'、訳者の小竹由美子さんによると文中では 'for dear life' (「必死で」の意)のかたちで使われているとのこと。

 'dear (「愛しい」「大切な」)life(「人生」「生活」「命」)'  。たったひとつの前置詞が言葉の温度をガラッと変えてしまうことの不思議がある。原語の 'for dear life' の中には 'dear life' の姿がはっきりと確認できるが、日本語の「必死で」の中には、'dear life(「愛しい、人生」)' の姿はよくよく目をこらさないと見えてこない。

 

 心を揺さぶられるのは、その 'dear life' という言葉にまつわるエピソードだ。

 近くに住む気のふれた老女から守るために、乳母車に眠るわが子を必死に('for dear life' )抱き上げたマンローの母。そして、マンロー一家が住んでいた家のルーツを考えると、もしかしたらその時、もう大きくなっているはずの娘を求めて乳母車を探っていたのかもしれないとも想像される、気のふれたその老女。両の母親の、せつないほどの、子を思う気持ち。

 

 それなのに、子というものは。親の思いに寄り添うことができるようになるのは、いつも遅すぎてからなのだ。

 

わたしは母の病の最終段階にも葬儀にも帰省しなかった。二人の小さな子供がいて、バンクーバーには子供たちを託せる人が誰もいなかったのだ。旅行の費用を捻出するのもやっとだったろうし、それに夫は形式的な行為を軽蔑していた。だがどうして彼のせいにする? わたしだって同じ気持ちだった。何かについて、とても許せることではないとか、けっして自分を許せないとか、わたしたちは言う。でもわたしたちは許すのだ--いつだって許すのだ。 (383ページ)

 

 「わたしたちは許すのだ」

  わたしたち。

 その言葉が目に飛び込んできた瞬間、マンローの物語は一気に私たちの物語になる。自らを断罪するかのように放たれるマンローの言葉が、読み手である私たちをぐっと巻き込む。「これはあなたの物語でもある」と耳打ちをしてくる。心の底に澱んで何かあるたびに顔を出す悔悟の念。決して巻き戻せない時間。二度と会えない死者…。子であることの罪深さ・弱さが、この私の罪深さ・弱さとして重く胸にのしかかってくる。

 

 この「ディア・ライフ」を最後に筆を擱くことを宣言したというマンロー。できれば、その決意をひとまず白紙に戻し、マンローが書かなければいずれは消えてしまうことになるマンローと家族の肖像を、書き進め一冊に纏めてほしい。

 

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 以前、篠崎書林という出版社から、モンゴメリー関係の書籍が何冊も出版されていた。その中に「L.M.モンゴメリの島」という写真集があり、本を開くと、そこにはプリンスエドワード島の叙情的な風景が並んでいて、モンゴメリーの書簡から引用した言葉がキャプションのように添えられていた。アンの世界に魅せられた子供にとっては、自分をあこがれの空間へと誘ってくれる夢のような一冊だった。朝日や夕日に輝く入江、広い大地の真ん中を地平線の向こうまで走る一本の道、真っ赤な大地、麦畑、森の小道、輝く湖水などの写真をながめては、美しくないものが何一つ写っていないこんな土地でいつか暮らすことができたらなあなどと、今となっては無邪気すぎて赤面したくなるような思いに駆られたものだ。

 その篠崎書林も、今はもうなくなってしまった。

 

赤毛のアン」とか「銀の森のパット」といったお気に入りの本のどこかになぞらえた、浄化したシーンを自分で作り上げて--- (368ページ)

 

 マンローにとってのモンゴメリー。

 

ディア・ライフ (新潮クレスト・ブックス)