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フユの備忘録

読んだ本の感想などを書いています

アリス・マンロー 「ディア・ライフ」(前)

アリス・マンロー、「ディア・ライフ

 Alice Munro,  Dear Life

 新潮社、クレストブックス、2013年刊。 小竹由美子訳

 

 前回の更新から3か月あいてしまった。

 マンロー最後の短篇集として出版された「ディア・ライフ」。そのタイトル、 Dear life という響きから想像されたのは、人生の酸いも甘いも味わいつくし、達観の境地に至った著者が、これを最後と紡ぎ出す、枯れた味わいをもつ静かな人生賛歌だ。だが、最初の一篇「日本に届く」を読んで、そんな想像、ただの感傷に過ぎなかったかという思いが頭をよぎる。なにしろ目の前に突きつけられたのは、恋する女の胸のときめき、心の高鳴りと欲望なのだから。ザワザワと胸騒ぎのする幕開けだ。この短篇集、どうやら静謐な人生賛歌という枠組みに収まる気配はない。やるなあマンロー、そうこなくっちゃ。人間、枯れてしまっては、物語など紡ぐことなどできないのだ。

 

 その「日本に届く」。

 主人公のグレタは詩人で、技術者の夫との間に幼い娘がいる。平らかで寛容な夫との生活にそれほど不満などないはずの彼女だが、あるきっかけで知り合った男性と、文字通り、恋に落ちてしまう。男に会いたいがために大胆な行動に出るグレタ。熱くなる心を持て余し、ユーフォリアと不安の間を揺れ動くその姿に、読む側としては、誰かを好きになってしまったときの苦しくせつない気持ちを思い起こさせられてしまう。昂ぶる気持ちを抱えつつも、その落ち着かない気持ちをひとまず脇に置いておいて、日々の雑事を何くわぬ顔でこなすことのできる女の二面性。齢80を超えた著者が、中年と呼ぶまでにはまだ少し間がありそうな女のそうした生態を、こんなにみずみずしく、しかもサラッと描くことができるなんて。

 

 男との再会の地に向かう列車の中での出来事に、グレタの心は揺れる。良き妻でも良き母でもないことへの罪悪感が頭をもたげる。罪の意識を抱えたまま目的の地に着くと、そこに待っていたのは.....。ロマンチックな中にも不穏な空気をはらんだ絶妙のエンディング。ともすると熱に浮かれて飛んでいってしまいそうなグレタを、地に繋ぎとめる重石の役割を担うのは娘のケイティだが、冷めた目で大人を見るこの子供は幼き日の、そしてグレタは若き日の、マンローの分身か。

 家庭を持つ男と女の恋、列車、という要素に、ふと、ロバート・デニーロメリル・ストリープの「恋に落ちて」を思い出してしまった。ストーリーに共通点はないのだけれど。

 

  二篇目の「アムンゼン」にもまた恋する女(の子)が登場する。舞台は第二次大戦中のサナトリウム。教師として赴任したヴィヴィアン・ハイドと、年上の医師アリシア・フォックスの物語だ。フォックスは他人の気持ちなどほとんど意に介さない皮肉屋でエゴイストの男だが、初心で少々勝気なところのあるヴィヴィアンは彼に惹かれていく。フォックスに誘われるまま結ばれ、やがて婚約。ある日、結婚の準備のために、二人してハンツヴィルの街に車で向かうが、そこで...。

 

  誰かを好きになり、その気持ちがもはや報われることはないと知った時、自分を苦しめる現実をそのまま受け入れることは難しい。その恋で幸せにひたった時間があったなら、なおさらだ。あの人の笑顔も抱擁も、あの時二人でいた幸せも、すべては幻だったのだと思い知らされるから。それにうっかりすると、それは自分自身を否定することにもつながりかねないから。ならばいっそのこと、自分の気持ちを受け入れてはくれなかった相手の非情さをも、そのまま甘いオブラートで包んでしまおう。あの人を夢の中の存在へと昇華させてしまおう。

 

 わたしはと言えば、アムンゼンを離れたときと、まだぼうっとして信じがたい気持ちのまま列車に運ばれていったときと同じ思いを抱いていた。

 愛は変わらないものなのだ。

 

 ヴィヴィアンが「愛は変わらない」と言う時、その断固とした口ぶりに、読む側は痛々しさと哀れみを感じてしまう。だが、時が経つにつれてその哀れみは、共感とも愛おしさともいえるような気持ちに変わっていく。自分の心を守るためにファンタジーの世界を築き上げた記憶がよみがえるから。

 

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 何かを失う瞬間、あるいは、当然「ある」と思っていたものが実は存在していなかったことに気づく瞬間が、人生には、ままある。特に40を過ぎてから後は、失う瞬間ばかりが続くようになってくるのだ。この「ディア・ライフ」には、そんな「喪失の瞬間」というものが幾度となく描かれている。

 マンローの「喪失の瞬間」の描き方には特徴がある。抑えた抑揚と簡潔な描写。2、3の、時にはたった1つの文章が登場人物たちの置かれている状況を一変させてしまうといった具合に。「喪失」というカタルシスを伴う経験を、いかにさりげなく、仰々しくならずに描くかーーミニマムな描写でマキシマムな効果を生むポイントはどこなのか、それをマンローは常に探っているように思える。

 

 だから読む側としては寝首をかかれないように注意しながら、ソロソロと読み進めていくわけだが、それでも大抵、してやられてしまう。すべてが一見起こってしかるべきことのように描かれているのでそれを読み進めていくうちに、ある時、ん? と違和感を感じるタイミングが出現する。そこで戻って読み直すと、実はそこが喪失の瞬間だったりするわけだ。

 さりげないが「ここ、」という絶妙のタイミングでマンローが切り出す喪失。不意をつかれて事実を受け止めきれない登場人物たちの感じるショックを、読み手も共有することになる。それも、とてもリアルに。マンローの「喪失の瞬間」に遭遇して感じる驚きと痛みは、薄い紙が指先をサッとかすめ、違和感を感じて指先を見ると、紙が触れた部分がさっくり切れて血がにじんでいるのに気づいた瞬間の、あの驚きと痛みに限りなく近い。

   

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 「ディア・ライフ」の最後の4篇は、まとめて「フィナーレ」と称されている。その冒頭に添えられている但し書き--「気持ちとしては自伝的な作品だが、じつのところそうとは言い切れない部分もある。これらは自分自身の人生についてわたしが語るべき最初で最後のーーそしてもっとも事実に近いーーものである」--の通り、「フィナーレ」の4篇は、それ以前のフィクション連とは趣が異なっており、マンロー幼少時代のメモワールといった体で書かれている。フィクションではプロットに技巧をこらすマンローだが、この「フィナーレ」4篇では、プロットにとらわれず、比較的自由に書いているのが印象的だ。そして他でもない、この「フィナーレ」の部分こそが、個人的には一番の読みどころとなった。

 

 

ディア・ライフ (新潮クレスト・ブックス)