堀江敏幸「音の糸」
小学館、2017年刊
買い物の途中に寄った近くの本屋で、まだ買っていなかった「音の糸」を手にとった。冒頭の一編「青少年のいる風景」は、著者が大学生のころに行ったあるコンサートについてのエピソードにはじまり、「十代の頃からFM放送やLPレコードを通して聴いてきた」という、世界に名の知られたピアニストが登場する。「美しく秀でた額と薄くなりかけた髪」のそのピアニストがベートーヴェンのピアノソナタを演奏しはじめると、「両腕が優雅なくらげにな」り、たゆたう腕の動きと奏でられる音とがシンクロしない不思議さこそあれ、ひとつしかない稀有な空間が立ちあがった……、と、当時の記憶が語られてゆくが、主役であるそのピアニストの名は、どこまで読み進めても明かされない。くらげのごとき優雅な腕の動きとそこから繰りだされる音の響きで著者を幻惑したというピアニストとは、いったい誰なのか?
「美しく秀でた額と薄くなりかけた髪」、そして、ベートーヴェンのピアノソナタ。ピアニストの正体を推しはかるにあたってのポイントは、おそらく、この二点だろう。ページを目で追いながらしばし考えるうちに、ふと、ひとりのイタリア人奏者の顔が目に浮かんだ。その額は、以前ある批評家が教皇庁の青年秘書官になぞらえもしたように、なるほど高貴ささえ感じさせる。マウリツィオ・ポリーニか。期待が確信へと変わった瞬間、足はレジへと向かっていた。
「静かに響きわたる著者初の音楽エッセイ」(帯より)
音楽エッセイを読むことの愉しみはいくつかある。自分が好きな演奏家や楽曲が取りあげられていればまずそれだけで喜びを味わえる。自分の感じていたことがそのまま文字になっていればもちろんのこと、うまく言葉にできずにただぼんやりと感じているしかなかったその魅力が、ああ、こういう風に言えるのか、と思える言葉で表現されていれば、胸のつかえがとれたようですっきりした気分になるし、自らの嗜好や感受性に著者のお墨つきがあたえられたような錯覚が生じて、自尊心が満たされもする。逆に自分ではとても思い及ばなかったような言葉でその魅力が語られていれば、近しい人のまだ知らぬ一面を見せられたようで心が震え、その楽曲や演奏家に対する思いがますます募ったりする。また、まだ聴いたことのない演奏家や楽曲が紹介されていれば、見知らぬ世界への扉が開かれたようで、気持ちが高鳴る。
サッカーのワールドカップが開催された後のフランスのある街の小さなホテルのロビーで聴いたホルショフスキー。郷里の修道院の礼拝堂でのギター演奏会で聴いた「アルハンブラの思い出」「禁じられた遊び」「亡き王女のためのパヴァーヌ」。「音の糸」で紹介される演奏には、それが生であれ再生であれ、著者がその時その空間にいて、さらに、その耳をもっていたからこそ生じえた、音楽との幸福な、ときに戸惑いを伴う出会いが含まれていて、そうした出会いの瞬間を活字のこちら側からうかがうしかない読み手には、自分がその場に居あわせなかったことが、さらには著者の耳を持っていないという当たり前の事実が、どうしようもなく不幸なことに思われてくる。音楽の愉しみを知っている者ならだれもがその人なりの音楽との出会いを積みかさねてきているはずだと、どこかでわかってはいても。
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生まれて一瞬にして消えてしまう音ーー音楽について書くことは、姿かたちのないものを記憶を頼りに言語化する、綱渡りにも似たいとなみだ。この「音の糸」では、可視化された音のイメージが音のひろがる時空間をクローズアップし、その場の空気と臨場感を醸しだして、読み手の感覚をざわめかせる。
数珠つなぎになっているのに音と音のあいだに薄皮一枚の隙間があり、ぱらぱらと一音ずつばらけて鼓膜を打ついらだたしさがあったのに、いつのまにか珠と珠の結びが緊密になっている。にもかかわらず、音が混じり合わずにひとつずつ立っているのだった
あのたらこのような指先から放たれる音が、一定期間、透き通った膜のなかにとどまり、時を経て静かに滲み出るように拡散していく
一方は音が一メートル前から飛びだし、他方は一メートル奥から伏流して眼の前に浮かびあがる
時に感覚をフルに使って感じられるものとして描かれる音。
スペインの太陽から熱を抜いたような、曇りのない少し冷えた音を出す人
こんな表現に出会ってしまったら、どうやってもその音色を確かめてみたくなる。好奇心が掻きたてられてしまう。目が活字を捉えるそばから音源を探したくなる音の描写が、そこかしこにあらわれる。
「美しく秀でた額」の主のほかにも、名を伏せられたままの演奏家が幾人か登場する。郷里の修道院で聴いたギタリスト。あるいはパリの演奏会で残念な出会いがあってから8年後、思いがけず幸せな再会を果たしたピアニスト。彼ら匿名の演奏家たちは、固有名詞が呼び起こしてしまう先入観という雑音に乱されることなく、まっさらな空間に音のある風景を造り上げる。その風景は、ゆるぎない美意識を持ちながらも白か黒かの二元論にはけっして与しまいとする著者の姿勢があってこそ、立ちあがるものだ。読み手はその景色を無心に見つめ、感じ、戸惑い、愉しめばよい。
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チェリストのアンドレ・ナヴァラや吉田秀和など、数編を割いて語られる人物のエピソードは、どれも静かな感動に満ちている。ブラームスの交響曲第一番とデビルマン、フレンチ・コネクションとリヒテル。およそ結びつけて考えることなどありえない二つのものが見事につながる魔法を見せられて、感嘆のため息が出たり笑ったり。著者堀江敏幸氏はどんな音楽を聴き何を感じてきたのか。その一端が明かされる、ファン必携の一冊。
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「青少年のいる風景」で秀でた額の主として紹介されたポリーニは、「記憶の初級文法」では「篤実なピアニスト」として登場、そして「残せなかった孤影」でようやくその名が明かされる。
機械的、無機質、技術優先。この弾き手にまとわりつく評の空しさを逆に虚しくする、強い気の塊と孤影がそこにはあった。音の丸みとも水の透明さとも無縁の、滞ることも辞さない凄み
末尾のエッセイをも飾るこのピアニストの魅力はまさにこの言葉に尽きる。