読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

フユの備忘録

読んだ本の感想などを書いています

ジュンパ・ラヒリ 「べつの言葉で」 (中)

ジュンパ・ラヒリ 「べつの言葉で」

 Jhumpa Lahiri, In altre parole

 

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

 

言葉にされず、形を変えず、ある意味では、書くというるつぼで浄化されることなく通り過ぎるものごとは、わたしにとって何の意味も持たない。長続きする言葉だけがわたしには現実のもののように思える。それはわたしたちを上回る力と価値をもっている。

 

 書くこと、あるいは書くという行為を通して生まれる言葉に対するラヒリの並々ならぬ思いがあらわれたこの一節に、息をのんでしまう。

 

 ある国に長く暮らし、その国の言葉を何不自由なく話し書くことができるにもかかわらず、あなたはなぜそこにいてその言葉を話すのかと、ことあるごとに尋ねられたなら、あるいは尋ねられはしなくとも、ちょっとした視線や言葉の調子から、そう思われているのを感じてしまったなら、自分の存在が否定されたような気持ちになるだろう。自分が思う自分と他者の目にうつる自分との間に大きな隔たりがあることを思い知らされるだろう。その隔たりはなぜ生まれるのか、自分はどう見えているのか、さらには自分とはいったい何者なのかという問いがそこに生まれ、他者を、というよりもむしろ、自分自身をじゅうぶん納得させられるような答えを出そうと考え続けることになるに違いない。アメリカ人として受け入れられることを激しく求めながら、無条件に受け入れられることのなかったラヒリの頭には、自分は何者なのかという問いが常にあっただろう。

 

 生きていくためにぜひとも習得しなければならない言語が、共に暮らす親にとってはそのアイデンティティーを脅かす言語であるのだとしたら。英語の単語を一語また一語と覚えていく喜びも、英語の本が読めるようになる楽しみも、それをもっとも分かち合いたいはずの親と分かち合うことができないとしたら。おそらく子どもは感じなくてよいはずの後ろめたさや心苦しさを感じてしまうし、知るには早すぎる孤絶感を味わってもしまう。親に十分守られていると実感することがまだまだ必要な年ごろに、言葉の面で、逆に親を守る側にたつことさえあったラヒリには、自分を庇護してくれる強さに満ちているはずの親の、弱者としての姿に、つまりは生身の人間としての姿に気付いてしまう機会が折にふれてあっただろう。

 

● 

 言葉さえできれば。英語を理解してはいても流暢に話すことのできない親の苦労を見るたびに、英語を完璧に話せさえすればとラヒリは思う。だが、言葉がいくらできてもそれだけでアメリカ人とみなされるわけではなく、そうと思い知らされるたびに、ラヒリの心はどこにもぶつけようのない憤りと無力感とでむしばまれていく。

 

 偶然とみなすにはあまりにしばしば、納得のいかない出来事、理解しがたい出来事に遭遇して、この理不尽はいったい何だろう、そこに何の意味があるのだろうとラヒリは考える。答えなど見つかるはずのないその問いをつきつめていく中で、ある時、理不尽な出来事を引き起こす要素は自分という存在にこそあるのだ、と思い至る。自分のなかの何かがそれを引き寄せてしまうのだと。そう気づいた瞬間、ラヒリのなかに自身を見る他者の目が生まれる。

 

● 

  書くことは自分自身と対話をすることだ。理解にあまる物事を書くことをつうじて理解しようとし、いまだかたちのないものにかたちを与えようとして書くという行為に出るとき、書きつける言葉のひとつひとつが、その精確さを書き手に問いかけてくる。いったい、この一語は思いを、物事のあり方を、矮小化も誇張もせず、怖れや願望に雲らされることもなく、うつし出すことができているのかと。他の誰をでもなく自分自身を納得させるために事象と言葉とを考えぬく。なかなか見えてこないものをどうにか見ようして目をこらす。そして自身のなかの他者の目が見開かれる。数えきれぬほど多くの問いがうまれ、あまたの言葉が浮かび、精査されては消えていく。最後に紙面に残った言葉には、幾多の問いを経てなおそこにあることが許されたものたちの持つ強さと、いくらかの普遍性が宿っている。

 

 書くという行為を通して見えてきた風景、しぼり出された言葉だけが、ラヒリにとっての真となる。