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フユの備忘録

読んだ本の感想などを書いています

オリヴィエ・アサイヤス 「アクトレス」

オリヴィエ・アサイヤス 「アクトレス」

  Olivier Assayas,  Sils Maria, 2014

         

 アサイヤスの映画を地元のシネコンで見られる日がくるとは思ってもいなかった。こんな機会はもうないかもしれないので、時間をやりくりして駆けつけた。(のは、もう去年の話になってしまった)

 

 個人的には「夏時間の庭」以来のアサイヤスだ。「夏時間」にもビノシュが出ていたけれど、あれは、緑に囲まれた趣深い邸宅と数々の美しい調度品が主人公とでも言えるような作品で、ビノシュが出ている必然性が正直感じられなかった。でも、今回の「アクトレス」、主人公のマリアを演じるのは、ビノシュ以外には考えられない。

 

 若く無名だったマリア(ビノシュ)にスターとしての道を確約することになった舞台「マローヤの蛇」。その作者、戯曲家ヴィルヘルム・メルヒオールの功績をたたえる式典が開かれることになり、代理で出席することになったマリアは、マネージャーのヴァル(クリステン・スチュワート)とともに式典の開催地チューリヒへと列車で向かう。スマホを手に列車内をせわしなく行き来しながらマリアのスケジュールを調整するヴァル。そこにメルヒオールが死んだという知らせが入る.....。

 

 この冒頭のシーンを見ていて、思いがけず、デジャヴュ感に襲われた。見たはずのないシーンなのに、いったい、なぜ? 小さな動揺を感じながら記憶の中をさぐっていくと、アモス・ギタイの「撤退」が浮かんだ。「ビノシュ」「列車」「死」という三つの共通のモチーフが、デジャヴュ感をさそったようだ。「撤退」の始まりも列車内シーンだった。といっても、乗っていたのはビノシュではなく、弟役のリロン・レヴォだったけれど。父親の葬儀に出席するためにイスラエルからフランスに戻るというシーンだった。

 

 「撤退」は前半と後半とで作品の空気が一変するので、見終わった後、趣の異なる2つの物語を読まされたような気がしたものだ。ビノシュは、コケティッシュな女、離れて生きる娘の身を案ずる母親、という2つの顔を自在に演じていて、人間の様々な感情を巧みにあらわす表現者だなあと思ったことを覚えている。美人というカテゴリーにあてはまるかどうかは微妙だけれど、なぜかその姿を目が追ってしまう。そんな磁力がビノシュにはある。フランス版メリル・ストリープ、といったところだろうか。忘れがたいのは、娘を訪ねてイスラエルに入ったビノシュが、案内役の男の車を港(?)で待つシーンだ。薄いベージュのコートに、かすかにオレンジがかった淡いピンクの長い長いスカーフ。その柔らかな色合いが、彼女の肌の白さによく合っていて、とてもエレガントだった。

  

 その「撤退」から7年。さらに貫禄と手堅さを増したビノシュが「アクトレス」で演じるのが、女優マリアだ。年の頃といい業界での立ち位置といい、ビノシュ本人を彷彿とさせるマリア。となると、どうしてもこちらは、マリアとビノシュを重ね合わせて見てしまうことになる。

 

 「マローヤの蛇」の再演が決まり、マリアに再びオファーが来る。だが今回は、かつて演じた若きシグリッド役ではなく、シグリッドに入れ込んだあげく棄てられ、死ぬことになる中年のヘレナ役でのオファーだ。シグリッド役を疑っていなかったマリアは、自分がもはやそれを演じるだけの若さがないと見られているのだと思い知らされる。他人の目に映る自分の姿に誰よりも敏感であるはずの女優にとって、お前はもう若くないと遠回しに言われることは、屈辱以外のなにものでもないだろう。そしておそらく、ビノシュ本人にとっても、その屈辱感はもはや無縁のものではないに違いない。

 

 マリアはそのオファーを一旦は断る。以前ヘレナを演じた女優は乗っていた車が激突してーー事故なのか自死なのかーー撮影後に死んだから、と。ヘレナ役につきまとう不吉な影が怖いというわけだ。でもそれはとっさに出た言い訳にしか聞こえない。マリアはただ自分が歳をとってしまったという事実を受け入れられないだけなのだ。

 

 シグリッド役に抜擢されたのは、若さにまかせた怖いもの知らずの言動でたびたびゴシップを提供するジョアン(クロエ・グレース・モレッツ)だった。彼女が出演するハリウッドSF映画をヴァルと一緒に見に行ったマリアは、その映画をこきおろす。高笑いする。怖れの裏返しとも思えるヒステリックなまでの笑い。

 

 ジョアンに才能を認めるヴァルは、マリアのその笑いが不快でたまらない。「時々あなたのことが本当に嫌いになる」と吐き出すようにつぶやく。 ヴァルは観察者だ。女優マリアをあらゆる形で支えつつも、彼女と同化することなく、独自のものの見方を崩さないでいられる冷静さを持っている。しなやかな感性と広い守備範囲で、豊富な経験に裏打ちされたマリアの頑固な価値観に新たな視点を吹きこむ、言うなれば、古いものと新しいものとの間をとりもつコネクターだ。

 

 役柄の魅力もあってか、このヴァルを演じるクリステン・スチュワートの存在感が、物語が進むにつれ自分の中でぐんぐん大きくなっていく。ビノシュ+アサイヤスの組み合わせに惹かれて見にいったはずの映画で、いつの間にかクリステン・スチュワートの姿を探しているのだから。贅肉のない、繊細でシャープなその演技が、ヴァルという存在に確かなリアリティを与え、ビノシュとクロエ・グレース・モレッツという華やかな女優役の2人にはさまれながら、その2人を凌ぐほどのプレゼンスを醸し出している。それも、これ見よがしにではなく、ごく自然にうつる演技で。

 

 ビノシュのほうはいかにも女優にふさわしい立ち振る舞いに徹している。役柄からしてそれは当然のことなのだが、スチュワートのラフな感じとあまりに対照的なせいか、その感情表現が時に過剰で紋切り型のようにも見えてしまう。演じていることを感じさせる演技というか、少し時代がかった演技というか。

 

 シルス・マリアにある静謐な白い山荘で、あるいは山腹で二人は台詞合わせを重ねる。ヘレナをどう演じたらよいか悩むマリアに、ヴァルは自分なりの役の解釈をぶつける。だがマリアは頑なにそれを容れようとはしない。相手の殻をこわすことができないことに苛立ちと虚しさを感じたヴァルは、台詞合わせの相手がほしいだけなら別の誰かに頼んでとマリアに告げ、ある日、姿を消す。

 

   Cruelty is cool, suffering sucks.

 

 ヘレナ役をめぐる対話の中でヴァルが口にする(それも、二度)この言葉が、若さと老い、愛される側と愛する側の立ち位置を端的に言い当てるこの言葉が、マリアとヴァル、マリアとジョアン、ビノシュとスチュワート、ビノシュとモレッツといういくつもの関係性と呼応して、頭の中を何度も駆けめぐってしまう。

 

 クリステン・スチュワートの強烈な存在感は姿を消してもなお残り、またどこかでふと姿を見せるのではないかという期待を、その可能性はかぎりなくゼロに近いと分かってはいても、最後まで捨てることができなかった。マリアの中にヴァルが息づいていることがわかる場面を目にする歓びときたら。それにしても、ほとんど素なのではないかと思わせる演技で向き合ってくるクリステン・スチュワートを、ビノシュはいったいどんな気持ちで見ていたのだろうか。目に見える若さ、若さや才に裏打ちされた自信とエネルギーに対し、嫉妬や羨望や焦りといった感情を持ったりはしなかっただろうか。もっとも、娘と言ってもいいぐらいの年の相手だから、少しは母親のような気持ちになっても不思議はないけれど(「若い才能を前にゾクゾクしたわ」とか)。ビノシュに聞いたらどんな答えが返ってくるだろう。

 

 この映画でのビノシュは、いつもの通り巧みな表現者だったと思う。特にラストのクローズアップは、屈辱、諦念、覚悟、決意など実にさまざまな感情をたたえているように見えて忘れがたく、最後にきてこの作品の主人公は誰なのかを思い出させてくれる。それでも、やはりどこか冴え切ってはいないように見えてしまうのは、多分ビノシュのせいではない。それがこの作品での彼女の役割であり、それに皮肉にして残酷にも、冴え切ってはいないように見えることで、この作品のテーマが二重の説得力をもって見る側の胸に迫ってくるように思う。

  

 ジョアン役のクロエ・グレース・モレッツのふとした表情に、ヴィルジニー・ルドワイヤンの面影を見て、思わずはっとしてしまった。アサイヤスも面影を見たのだろうか。

   

 

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