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フユの備忘録

読んだ本の感想などを書いています

モーリス・ピアラ 「ヴァン・ゴッホ」

ピアラ 「ヴァン・ゴッホ

 Maurice Pialat,  Van Gogh 1991年/ 160分

 

 シアター・イメージフォーラムで開催されていた没後10年特集上映の中の一本。

 

 ゴッホがオーヴェルの駅に降り立つシーンで始まるこの作品は、37年で終わる彼の人生の最後の2ヶ月間、オーヴェル=シュル=オワーズでの日々を描いている。普通、ゴッホという名を聞いて思い浮かべるのは、「天才」「狂気の人」などの言葉に象徴されるような、人であって人ではないようなものの姿だ。その「狂気の人」というイメージを裏打ちするかのように、冒頭、ガシェ医師の家を訊ねたゴッホが、医師の質問に答えるかたちで発作・頭痛の具合を静かに語るシーンがあり、映画はその後、彼の「狂気」に焦点を当てていくのではないかという予感が一瞬、胸をかすめるが、その予感は快く裏切られ、物語はしばし穏やかに展開していく。

 

 セザンヌはじめ何人もの画家が絵を描くために訪れ、画家村とも呼ばれていたというオーヴェル。カメラは、村の静かな乾いた空気と19世紀末フランスの田舎村の風俗を映し出していく。村人たちに交じって、デッサンに出かけに坂道を下るゴッホ。その姿を照らす、日暮れ時とも思えるような陽の光。静寂の中に聞こえる羽虫の飛ぶ音、風が木々をゆらす音。未舗装の少しぬかるんだ道を歩く女たちがまとうドレスの泥にまみれた長い裾。あたり一面に広がる麦畑。野外でピアノやバイオリンの伴奏に合わせてダンスに興じる人々。激しくステップを踏む足元からもうもうと立ち上る土埃。ゆるやかに流れる川の岸辺でドレスを脱ぎ棄て、午後の光に裸体をさらして談笑する、パリからやって来た娼婦たち..。

 

 ピアラが捉えるゴッホは、「天才」あるいは「狂気」のオーラとは無縁の、ただの一人の人間だ。村人たちと言葉を交わし、しばしばガシェ医師宅を訪れ、絵を描き、飲み、時に笑い、女と抱き合う。2ヶ月をオーヴェルで過ごし、そこで死んだ、無骨で自分自身にのみ忠実な男。口を開けば周りの人間との軋轢を生んでしまう、人間的に不器用な面も含めて、どこにでもいそうな男。

 

 大きなキャンバスを背中にくくりつけ、広い麦畑を描きに出かける、あるいは、ガシェ医師の娘、マルグリットを描くゴッホ。ピアノを弾くマルグリットの姿勢を正しておいてから、その構図を崩してはならないと警告するかのようにピアノと娘に視線を留め、腰高の窓をまたいで庭に出て、セットしてあったキャンバスに大胆に筆を走らせるゴッホ。腕と身体を上下に動かしながら描くその姿、キャンバスに絵の具を重ね布でこする姿に、絵を描くことが時に肉体を酷使する作業にもなることをあらためて思わされる。

 

 肖像を描けと言ってつきまとう知恵遅れの青年をうるさく思いながら、それでも描いてやり、泣いている子供に「砂男」の絵を描いてやる、描く人、ゴッホ

 

 あるいは、週末、パリからやって来たテオ夫妻と共に、ガシェ医師邸の庭での昼餉を楽しむゴッホがいる。テオと一緒にロートレックの物真似をしては愉快そうに笑う。そしてマルグリットに、またパリの娼婦カティに好意を寄せられ、二人の間を行ったり来たりする。行ったり来たりとは言っても、優柔不断というのではない。向こうから近づいて来て与えんとする者から受け取ることはしても、自分からは進んで与えようとしないまでのことだ。そしてそんな男だからこそ、女たちは魅了されてしまう。それなりに人好きのする男でもある、ゴッホ

 

  だから、ガシェ医師が彼を「天才」と呼ぶ時、あるいは義姉のヨーが彼の人生を「破綻」と断ずる時、不意をつかれたような気がして動揺してしまう。

 

 天才? たしかに。10年間でおよそ1000もの油彩画を描き、一見して彼のものと分かる筆致で見る者に忘れがたい印象を残す画家を、天才と呼ばずになんと呼ぶのか。 

  破綻? たしかに。37歳にして、弟の金銭的援助を受けながら売れない絵を描き続ける男がいるなら、その人生はなるほど「破綻」しているとも言える。

 

 それでも、このスクリーンの中の男を「天才」「破綻」という極度のテンションを伴う言葉で括ろうとすれば、そこにかすかな違和感が生じてしまう。その違和感こそ、画家の名前に染みついたイメージを可能なかぎり削ぎ落としたところに人間ゴッホを映す、という姿勢に、ピアラが徹していることの証なのだと思う。

 

 終盤、テオとの関係が緊張を孕むにつれ、ゴッホの精神状態は不安定になる。僕は兄さんの絵が嫌いだ。ヨーにそう告白するテオ。たとえ兄さんがルノアールのように描いたとしても、その絵を好きにはならないだろう。兄さんが描いた絵であるがゆえに。

 

 テオが自分の絵を嫌っていることをゴッホは知っている。それに母親が自分の絵を捨てたことも。身近な人にさえ理解されないことの孤独。描いても描いても売れぬ絵。認められないことの苦悩(生前に売れた絵は、たったの一枚だけだったという)。

 

 腹部に銃弾を受けたゴッホが、背を丸め、ベッドに横たわる姿が、病で逝ったある人の末期の姿と重なる。静かに、だが確実に命の細っていく様子が、目に焼きつく。

 

 ピアラは画家の内奥の感情を過度に説明することはない。それだけに却って、作品を見終わった後も、画家その人にとりとめもなく思いを巡らしてしまう。

 

 「天才」「狂気」などという言葉は、それを使う側の人間のためにのみ存在する、物事を単純化するための記号に過ぎないのだと思う。人間の生の本質は、そうした記号には収斂され得ない幾多の要素にこそあらわれる。そんなことを強く意識させてくれる作品だ。ただ生きてあること。一人の人間の生が、何の言葉にも還元され得ないものとして呈示されるがゆえに一層強いリアルさを伴って、見る側の心を打つ。

 

 当初、ゴッホ役にはダニエル・オートゥイユが決まっていたという。もし演技功者のオートゥイユが演じていたら、まったく違う雰囲気の作品になっていただろう。デュトロン演じるゴッホのごつごつとした無骨さ、寄る辺なさは失われてしまったかもしれないなあ、と思う。

 

 1980~90年代、まだ映画のTV放映でノーカット・字幕版が珍しかった時代、「ミッドナイト・アートシアター」でピアラの「愛の記念に」を観た時の鮮烈な印象は今も忘れられない。まだ若かったサンドリーヌ・ボネールの、演技とは思えぬようなさま、ふてぶてしいとさえ言える貫禄がすごく魅力的だった。ピアラ演じる父親のエゴイストぶりと大きな意味での優しさに、役柄になのか、それとも役柄に透けてみえるピアラその人になのか、よく分からないまま、危険なものに吸い寄せられるかのように惹かれもした。

   「愛の記念に」のDVD化も期待します。

 

ヴァン・ゴッホ [DVD]

 

 

追記:パリのテオ宅での印象的なシーン。盥の上で身体を清めるヨー。その豊満な肢体と身体に水(湯?)をかけるポーズは、さながら一枚の絵のよう。泣き始めた赤ん坊をあやすかのように、口笛で鳥の鳴き声をまねながら、ゴッホが鳥の形の小物を「花咲くアーモンドの枝」に留めるシーンの静謐さ。