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フユの備忘録

読んだ本の感想などを書いています

「フランク・オコナー短篇集」

フランク・オコナー短編集」

 Frank O'Connor 岩波文庫 阿部公彦訳

 

フランク・オコナー短篇集 (岩波文庫)

 

 名前が似ているので、どうもフラナリー・オコナーと混同してしまうことの多かったアイルランドの作家、フランク・オコナーの短篇集。カタカナで書くと「オコナー」はもちろんのこと、「フラ」まで同じなので、名前だけで区別しようとするのは、なかなか難しい。実際に作品を読み、「アイルランド+短篇=フランク」という図式が頭の中でなじんでようやく、間違えることがなくなった。ちなみに村上春樹フランク・オコナー国際短編賞を受賞したのは2006年のことだった。

 

  イェーツが「アイルランドのチェーホフ」と呼んだオコナー。前回のブログで書いたマンローは「現代のチェーホフ」と呼ばれるが、同じ「チェーホフ」でも、当然のことながら、読後の印象はぜんぜん違う。「小説のように」で描かれたマンローの世界を、引きのショットで見せる映画にたとえるとしたら、「短篇集」中のオコナーの世界には、観客との距離がごく近い、小劇場での演劇、といった趣きがある。ひと癖もふた癖もある人間臭さ全開の登場人物たちが、舞台上で繰り広げる喜劇や悲劇。それを間近で見せられているような気分になるのだ。

 

  オコナーが生まれたのは20世紀初頭の1903年。訳者の阿部公彦さんの解説によると、ある時期IRAに関わっていて、当局に身柄を拘束されたこともあったという。 この短篇集では「国賓」と「ジャンボの妻」の二篇が独立闘争を背景にして描かれている。IRAと聞いてまず頭に浮かんでくるのは「キャル」や「クライング・ゲーム」といった映画なので、それ(IRA)がオコナーの時代にすでに存在していたということが、まずなによりの驚きだった。

 

 その「クライング・ゲーム」(ニール・ジョーダン監督)、実はオコナーの「国賓」をモチーフにしているのだという(wikipedia英語版より)。私の記憶にあるのは、惹かれていた「女性」の正体(実は男だった!)を知った主人公ファーガス役のスティーブン・レイが驚愕するシーンばかりで、肝心のストーリーはほとんど抜け落ちていたのだが、映画のあらすじを読むと確かに、捕虜と見張りの間の「友情」の話になっていて、「国賓」を下敷きにしているというのは、間違いないのだろう。

 

 オコナーの「国賓」に描かれているものを「友情」とまで言ってよいのかは分からない。でも少なくとも、同じ空間で共に時を過ごした者同士の仲間意識、のようなものとは言えて、読んでいて、その「仲間」同士のやりとりに心が少し和まされるところがあっただけに、非情な結末には何とも言えないやり切れなさを感じた。

 

 さておき「フランク・オコナー短篇集」。この短篇集を読んでいると、当時のアイルランド、それも都会ではない町や村で、人と人とがどのように関わりあいながら生きていたのかが見えてくる。物語の舞台はたいてい、誰もが誰のことをも知っているような、小さな共同体だ。各家の扉の内側で起きたことも、いつの間にか周りの住人たちに筒抜けになっているし、ひとたび人としての道に外れた行いなどしようものなら、つまはじきに合うこと間違いなし。人を裁くのは司法ではなく土地の住人たちだ。暮らしていれば少なからず息苦しさを感じてしまうに違いない。でも、そんな土地だからこその、密な人間関係が、そこにはある。

 

  どの作品も会話が生きているなあと思う。会話の中から登場人物たちの姿がくっきりと立ち上がってくる。人はどんな時に何を言うものなのか。人の心のあやをよく知る者にこそ書けるような会話がちりばめられている。他愛のない会話にしたところで、オコナーの手にかかると、会話というものはそもそも、その内容もさることながら、言葉のやりとり自体に意味があるではないか、という気にさえさせられる。オコナーの時代には、というより、オコナーその人に、「話す」ことに対しての無条件の信頼があったのだろう。

 

 どの作品もそれぞれに味わい深く、読むたびに新たな発見があって(前回読んだ時にはうまく掴めていなかったのだ、と気付くこともある)、何度読んでも楽しめる。頭をガツンとやられるような衝撃と、目の奥で何かがにじんでいくような切なさに襲われるのが、上述の「国賓」だ。無口なイギリス人捕虜ベルチャーは、死を覚悟した時、自らの身の上について語り出す。覚悟したように自らハンカチで目隠しをした彼は、これから行うことは「任務」なんだと強調する「仲間」に対してこんな言葉を投げる。

 

「俺には任務っていうのは何なのかわからない」ベルチャーは言った。

「お前らみんないい奴だよ。そのことを確認したいならな。恨みはない」

                       (60ページ)

 

 自分に銃を向ける人間に対して「恨みはない」と言えるだろうか、「いい奴だよ」と言われてなお「任務」の遂行ができるだろうかと、わが身に置きかえて考えずにはいられなくなるセリフだ。人間性のかけらもない「任務」が生まれ、それが遂行されてしまう武力闘争の虚しさ、愚かしさ。

 

  昔話を思わせるタイトルがほのかな笑みを誘う「あるところに寂しげな家がありまして」(There is a Lone House)。ある事情から村の住民たちと交わることなく暮らしている女の元に、風来坊然とした男がやって来た。いつしか一緒に暮らすようになる二人。やがて男は女の過去を知る。

 二人きりの閉ざされた空間でのやりとりに、男と女の微妙な心の揺れと、刻々と変化する力関係が映し出されるスリル。二人の間で見えない空気が押しつ押されつしている。シュールにしてリアル、不思議な魅力をもつ一篇。

 

 「ルーシー家の人々」。あることがきっかけで、ルーシー家の兄弟トムとベンの間に諍いが始まる。二人の間で板挟みにあうのはベンの息子チャーリーだ。病に倒れ死の床にある父ベンにせがまれ、和解を求めにトムの元に出向いたチャーリー。でも、トムはかたくなに態度を変えようとはしない...。

 ベンとトム、そしてチャーリー。三者の言い分がそれぞれに「なるほどなあ」と納得でき、誰にも感情移入できるだけに、こじれた人間関係の、そのどうにもならなさが身に沁みる。現実の世界に満ち満ちている、一族の間のいがみ合いの、縮図のような作品。

 

 「汽車の中で」 。何もない村からある目的のために町に出てきた警官たち、農民たち。村へと戻るため彼らが乗り込んだ汽車に、発車直前、一人の女が飛び乗った。車中で興じられるおしゃべりによって、彼らが町に出た理由と女の身の上が徐々に明らかにされていく。農民たちの一行に混じって老人が一人。永く生き、多くを見てきた人間に言わせてこそ、重みを持つ言葉がある。

 

「たしかに金かもしれん。金欲しさで、人を殺すことだってあるわな。土地欲しさで、人を殺すことだってある。だけどこれは何だ? 何かが変わりつつあるんじゃ。世の中が豊かになって、人は欲張りになってしまった。子供の頃、田舎じゃ、獲物を捕まえると六等分したもんじゃ。六分の一を自分でとって、あとはご近所さんにやった。魚を捕ったときもそうだ。人間は昔からずっとそうしてきたんじゃ。だが、この変わりようはどうしたことじゃ! 昔みたいに貧しくもないし、善良でもないし、人に分け与える気持ちもなければ、強い心もないときてる」   (301ページ)

 

 およそ80年も前に書かれた作品に、すでにこんなセリフが書かれているなんて。もしこの老人が今の世にいたら、いったい何を思うだろうか。

 汽車という閉ざされた空間で交わされる会話、会話。一幕物の戯曲に仕立て直して、舞台で見ても楽しいだろうなと思える一篇だ。