フユの備忘録

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アリス・マンロー 「小説のように」

アリス・マンロー、「小説のように」

Alice Munro,  Too Much Happiness.

新潮社、クレストブックス、2010年刊。小竹由美子訳。

 

 マンローの短編集「小説のように」を、ここ何週間かをかけて読んでいて、何を書こうかとあれこれ考えていたところにノーベル文学賞受賞のニュースがあった。マンローとノーベル賞。発表日の朝、候補にあがっていることを知って驚いたぐらい、私の中では両者を結びつけて考えることがなかったわけだが、実績・年齢からいって、ありえなくないなあ、というか、十分ありえるじゃないか、と思ったら、やはりの受賞だった。英語圏女性作家というならば、もう一人の人のほうかなあ、という予想も個人的にはあったのだが、こうなると、そのもう一人のほうの受賞は、しばらくないのだろう。  

 

 「小説のように」。ここに収められている作品には、どれにも小さなトゲや毒がある。毒とはいっても、ドロドロした毒ではなく乾いた毒で、それが、読み進めていくうちに少しずつ読み手の中に蓄積されていく。

 

 一度にもたらされるトゲや毒は微量なので、読み手は毒が自分の体内に取り込まれていることに気がつかないでいるが、ある時突然、毒が飽和状態に達し、それ以上読み続けることに耐えられなくなる。「小説のように」を読むのはだから、後半結構しんどくて、途中から流すように読んでしまい、結局その後半部分を何度か読み返すことになってしまった。だが、毒にあてられた感覚があったにもかかわらず、読後感が意外なほどさっぱりしているのは、つまりはそれが短編小説の性質であって、重いしこりを残さない体のものだからなのかもしれない。いや、もしかしたらそうではなくて、話のそこここに顔を出す「非日常性」が作品に軽みを与えているせいなのかもしれないし、あるいは、どの話も何らかの意味で「最悪」をかろうじて免れながら生きている人々の話になっているからなのかもしれない。

  

 ある日あることがきっかけで、人生には自分には見えていなかった側面があることを知り、物の見方が変わってしまう。そんな、だれにでも起こる気付きと覚醒、成長(それはすなわち老いでもある)のプロセスを描くのがマンローはうまい。「小説のように」の中で、登場人物たちは、不条理で不可思議でときにグロテスクですらある出来事に遭遇する。彼らが自尊心を傷つけられ、足元をすくわれて動揺する姿に、同じ動揺を経験した者なら古傷のうずきを感じてしまうはずだ。一皮むけて、哀しくも一歩たくましい存在に変わっていく人々。変化の過程で感じる不安や頼りなさや諦念といったもの、傷つけられてもなおも残る自尊心、そして新たに芽生えたひそやかな確信を描いて、人間というもののしたたかさ、ひいてはマンロー自身のしたたかさを感じさせる。根っこの部分では、人間はけっこうしぶとい。

  

 もっとも印象的な一篇は「深い穴」だ。幼い子供と夫婦の一家五人で出かけたピクニックのシーンで幕を開けるこの作品。森の入口に立てられた、断崖への注意を促す標識に象徴されるピクニックの顛末と、その後の家族に起こる出来事が、数十年のスパンにわたって描かれている。終盤、長らく音信不通だった長男ケントと母サリーが久しぶりに再会して以降の展開が胸に刺さる。待ち合わせの場所に現れた息子の姿に激しく動揺するサリーと、会話の中で浮きぼりにされていく親子の間の価値観の断絶。

 

 彼の顔にさっと浮かんだ表情は凶暴と言っていいくらいだった。

「疲れないか、サリー? お利口さんでいるのに疲れないか? 悪いけど、こんなふうに話してるわけにはいかないんだ。やらなきゃならないことがあるからね」    (161ページ)

 

 親に向かってこう言い放つ、底知れぬ不気味さをたたえたケントの生々しい存在感が心に残る。

 

 英語版の表題作「あまりに幸せ」は、実在の人物、作家にして数学者であるソフィア・コワレフスカヤの人生を描いたもので、「小説のように」中の他の作品とは趣をまったく異にしている。歴史小説ミニチュア版といった感じのこの一篇は、 ソフィアに関連するエピソードを、時空間自由に並べていく手法をとっている。だが、それでソフィアその人をうまく描くことに成功しているかというと、必ずしもそうとは言えないような気がする。この一篇、個人的には、もっと長い分量で書いてもらって、じっくり読めたらよかったのになあと思う。それが少し残念だ。

 

小説のように (新潮クレスト・ブックス)