フユの備忘録

読んだ本の感想などを書いています

ぺティナ・ガッパ 「イースタリーのエレジー」

読んだ本の感想などを記録する備忘録です。

 

 第1冊目は、ガッパ、「イースタリーのエレジー」(An Elegy for Easterly)。

 新潮社のクレストブックス。2013年6月刊。

 1971年ザンビア生まれ、ジンバブエ(旧ローデシア)で思春期を過ごしたペティナ・ガッパ Petina Gappah が、2009年に発表した短編集。

 

 「ジンバブエを知っていますか?」

 こんな問いかけが帯にある。

自分に対して問いかけるとしたら、「ほとんど知らない」という答えしか返せない。学生時代に「ローデシア」という名前で習った国が、現在のジンバブエだ。日本で生活しているとどうにも接点のない、ほとんど未知の国である。

 

 「ハイパーインフレ」、「エイズ」、「独立闘争」に「一夫多妻制」。ガッパの作品に描かれるジンバブエという国のイメージを大まかに言うとしたら、そんな感じだろうか。決して明るい希望に満ちた国には見えないジンバブエ。そこに暮らすさまざまな立場の人間を、ユーモアを交えて描いた作品13編が、「イースタリーのエレジー」には集められている。

 

 いまだエイズが流行し、一夫多妻制が現実にあるというアフリカ。ニュースで見たり、アフリカ関連の機関で働いていた知人に聞いたりして、アフリカに関する知識は少ないながらも持っていたつもりだったが、そうした知識はまさに単なる知識でしかなかった。

 

 作品中、登場人物たちは皆、自分の力ではどうにもならない出来事に翻弄される。ジンバブエにとどまるにせよ離れるにせよ、毎日いろんなパンチを食らいながら、自分の居場所を確保しようと悪戦苦闘している彼らの姿が、この不安定な日本という社会の中で、大変な思いをしながら生き抜いている私(たち)の姿にぼんやり重なって見える。読み進めていくうちに、遠い国についての断片的な単なる知識が、生身の人間の体温を伴った現実の出来事として、自分の中にインプットし直されていくのを感じる。

 

 それにしても、ジンバブエでの暮らしの厳しさは半端ではなさそうだ。

1年間で物価が97倍にもなり、パン1個が50万ドル(!)というハイパーインフレ。ブランチ、ランチ、パーティーにいそしみ、南アフリカまで飛行機で出かけていってショッピングする一部の特権階級が国を牛耳る一方で、厚手のビニールシートで四方を囲っただけの家ともいえない家に住む貧困層が、毎日の生活にあえいでいる。

 

 いつかとばっちりで自分も罹るかもしれない赤い唇の病、エイズもある。夫たちは、そろいもそろって妻以外の女性と関係をもっている。女たちも黙って泣き寝入りしているわけではない。妻も浮気する一方、愛人にも正妻の地位を得るチャンスはある。しかし「小さな家」の女から「大きな家」の女にのし上がれたところで、いつまでその地位に甘んじていられるかは分からない。

 

 貧しい者と富める者、男と女、先の短い老人と人生の何たるかをまだ知らぬ子供。まるでジンバブエという国の自己紹介をするかのごとく、いろんな立場の人物を登場させて、ガッパは一面的でないジンバブエ像を読者に示したかったのだろうか。彼らが置かれている状況は、どれも、ジンバブエという国特有の事情をはらんではいるけれど、彼らが笑ったり泣いたり、憎んだり、傷ついたりする時、「ああ、その気持、分かるなあ」と共感してしまえるのは、結局、人間のなすこと考えることは、世界のどこにいても大して変わりはしないということなのかもしれない。

 

 親類縁者同士が、ささいな優劣を競いあっては、優越感を満足させたり劣等感にさいなまれる姿。ふと息子に言ってしまった取り返しのつかない一言を悔やみ続ける母親。若き情熱に燃えた日々は過ぎ、倦怠期にある夫婦の心のすれ違いと、かすかな触れあい。ちょっとした心の機微をすくいとって、悲壮感を漂わせることなく、可笑しみさえ交えて描く。ガッパはそれがうまいなあと思う。

 

  時折出てくるジンバブエの地名や通り、店の名や、歌手、音楽ユニットなどの固有名が、日本人の自分には馴染みが薄く、その文化的な位置づけがつかめなくて(文脈から想像はできるが)歯がゆい思いもする。でも、こうした固有名こそが、物語に現実味を与えるスパイスになっているのだと思う。

 

 著者紹介によると、ガッパはジンバブエ大学卒業後、グラーツ大学で国際商取引法の博士号を取得、ケンブリッジ大学にも留学したとのこと。1998年からはジュネーブの国連世界貿易機関に勤務するも、2009年の本作発表後、2010年に帰国している模様。そんな経歴が影響しているのだろうか、留学した者とジンバブエにとどまる者との軋轢が、一度ならず描かれている。その描かれ方の中に、留学した側の人間であるガッパが、自分を揶揄するかのような視線が垣間見えて、面白い。

 

 それにしても、ガッパが、傍から見えば何の申し分もないような、輝かしい国際機関での職を捨てて、物書きの道に入ったのはどうしてなのだろう。

 

「エリオット、ピンター、ゴールディング、そんな文学者のことを覚えても、金が稼げるようにはならないのだ。アチェペ、マレチェラ、ダンガレンブガ、そんなアフリカの文学者を知ったところで何になる。いまどき求められる科目は、コンピューターサイエンス、会計学、経済学、経営学」   (「妥協」より)

 

今の時代、どこの国も事情は同じなんだなあと思う。

それでもあえて、文学で生きていくことを決意した。それは単に、多くを読んで自分でも書きたくなった、というだけのことなのかもしれない。でも、それに加えて

 

   「語られないこと書かれないことは事実にならない」

    (「軍曹ラッパが鳴り終えて」より)

 

という社会の中にあって、自分を含め、そこに暮らす人々が、たしかに生きているという、その痕跡を残したいという思いがあったりするのだろうか、と想像する。

 

  各短編ともどこか洗練された印象を受けるのは訳文のせいだろうか。訳者は小川高義。13編を訳してガッパ・ワールドを紡ぎ上げてしまう手腕に、今回も脱帽しました。

 

 ガッパのブログを見ると、彼女がどんなことに興味を持って生きている女性かがよく分かって面白いです。ブログ名は The world according to Gappah。

 

イースタリーのエレジー (新潮クレスト・ブックス)